精神医療 の検索結果:

書評『近代日本の民間精神療法』

…か、現代日本における精神医療の現状に対する人々の不満という観点から、若干の考察を加えてみたい。 本の帯では、本書は次のように紹介されている。 霊術・精神療法を総覧するオカルト史 催眠術は明治に輸入されて大正期に霊術・精神療法へと発展し、ヨーガと日本の腹式呼吸法が混じり合い、エネルギー概念が「気」に接合される。これは「呪術の近代化」「催眠術の呪術化」であり、西洋の近代オカルティズム、アメリカのニューソートと並行するグローバルなオカルティズム運動であった。その全体像を多様な視点か…

精神科医療は必ず善か?

…の共存ー熊田注)を送っている人も、精神医療を受けた時期のある人もある。こういう人が継続して精神医療を受けたほうがよかったかどうかは、距離を置いて眺め直してみる必要がある。われわれはわれわれの専門職が有効であり、あらゆる例に適用されるべきだと考えがちである。しかし、それはすべての専門職の人間が持ちやすい偏見である(中井久夫「医療における合意と強制」『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年(初出1988年)、p292)。*精神科医には、こういう謙虚さを保っていて欲しいものです。

コメント『近現代日本における民間精神療法』

…学者のクライマンは、精神医療を、一.専門家セクター、二.民間セクター、三.民俗セクターに三分した。現代日本においては、精神科医や臨床心理士が担う「専門家セクター」に対する人々の根強い不満があり、それが本書で取り上げられたような「民間セクター」に対する期待に結びついているのではないだろうか。精神科医の間では毀誉褒貶があるようだが、代替医療に詳しいことは間違いない、「精神科養生のコツ」を説く精神科医の神田橋條治の著作に対する大衆人気とも一脈通じていると思う。 弱肉強食の趣もある新…

AC・よそもの・私とあなた―「見捨てられ」感覚をめぐって―

…を例にとってみよう。精神医療の専門家ではない一般生活者には、例えば「食欲に関係するホルモン」の話はほとんど理解できない。しかし、摂食障害者の背後にある家族関係については、専門家でなくともよく理解できる。しかし筆者は、単にそれがわかりやすいからというだけではなく、AC概念が現代の先進国に生きる人たちの精神生活の一面を確実に捉えている、という側面もあると考える。 この論文では、こうした広い意味でのAC概念を用いて、宗教哲学の古典マルティン・ブーバーの「私とあなた」(2)、およびフ…

非定型うつ病の信仰治療について―マインドフルネス瞑想と禅宗―

…想は、肯定的に見れば精神医療が宗教(東洋の宗教)を取り入れようとする試みであるが、否定的に見れば、精神医療は宗教的伝統のなかでもエビデンス(科学的根拠)が取れた部分しか取り込もうとしない、と見ることができる。先進国のなかではマインドフルネス瞑想の指導が出来る認知行動療法の専門家が少ない日本では、仏教、特に禅仏教の分厚い蓄積を生かして、むしろ禅仏教の伝統を再活性化すべきではないか、と考える。 そもそも精神疾患に坐禅を適応することに関しても、我流の坐禅は危険で、注意深い信仰指導が…

マインドフルネスの流行をどう見るか

…監修)『よくわかる/薬いらずのメンタルケア』主婦の友社、2011年、pp.76-77)。 *こうした、深いリラクゼーションによって症状を軽減しようとする瞑想・マインドフルネスの先進国における流行をどう評価すべきでしょうか?肯定的に見れば、精神医療(認知行動療法)が宗教(東洋の宗教)的伝統を取り込もうとしているともとれます。否定的に見れば、精神医療はまだ、宗教的伝統のなかでも、「エビデンス」(科学的根拠)となるデータがとれた部分だけしか取り込もうとしない、と見ることもできます。

統合失調症の治療と「母性」

…」という感じがよかろう。 患者にたいするときは、どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる姿勢が治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ、患者によい影響を与え、治療者も楽になる(中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学/第2版』医学書院、2004年、p142)。 *「「深いところでのまともさ」を信じる姿勢」とか、「「卵を握るような、ふわりとして落とさない包容」という感じ」という表現は、精神医療関係者でなくても十分に参考になります。

境界例は拘束を嫌う

…いくことがしばしばある(滝川一廣の指摘)。人体経過を数多く経て細菌が弱毒化するようなものであろうか。自分こそ彼(彼女)の治療者になろうと頑張ると、患者は拘束感を持ち、自殺への道に足をふみいれてゆくことがありうる。患者はしばしば治療者を心理的にも物理的にも拘束するが、拘束されるのは非常に嫌いで、この二つの落差が大きい(中井久夫「軽症境界例」『世に棲む患者』筑摩学芸文庫、2011年(初出1987年)、p221)。 *精神医療の素人は、なおのことヒュブリスに注意すべきなのでしょう。

AC・異邦人・ブーバーー『見捨てられ』感覚をめぐって

…を例にとってみよう。精神医療の専門家ではない一般生活者には、例えば「食欲に関係するホルモン」の話はほとんど理解できない。しかし、摂食障害者の背後にある家族関係については、専門家でなくともよく理解できる。しかし筆者は、単にそれがわかりやすいからというだけではなく、AC概念が現代の先進国に生きる人たちの精神生活の一面を確実に捉えている、という側面もあると考える。 この論文では、こうした広い意味でのAC概念を用いて、宗教哲学の古典マルティン・ブーバーの「我と汝」、およびフランス文学…

精神医療はアメリカ化すべきではない

精神科医の中井久夫さんが、最近のエッセーのどこか(出典は失念)で、アメリカの精神科医に会うと、「私たちアメリカの精神科医は、いまや保険会社の従業員のようなものである。貴国の精神医療は、私たちの轍を踏まないように気をつけてほしい」と言われる、と書いていました。TPP交渉締結後の日本の精神医療が心配です。

境界性パーソナリティ障害の回復

…患です。現在の自分に希望の芽を見出して、そこから出発するしかありません。ひとたび出発したならば、他の多くの患者から示されている回復までの道筋や、これから議論する精神保健の専門家による治療をガイドにして前進することができるでしょう(林直樹「解題」タミ・グリーン『自分でできる境界性パーソナリティ障害の治療ーDSMー4に沿った生活の知恵ー』誠信書房、2012年、pp89-91)。 *「精神医療の厄介者」扱いされがちだった境界性パーソナリティ障害の患者には、希望のメッセージでしょう。

境界例/適切な距離/相手への尊重

…気づいた私は精神病の精神医療に関してだが、「適切な治療的距離」(proper distance)という概念を先人の文献から借りてきて強調した(「精神療法一般の治療機転」「精神医学」9、二七三-二七八頁、1967)。しかし実際は精神病より一見コンタクトの取りやすい、それでいて近づき過ぎて、行動化を誘発する境界例での失敗経験によるものだった。 もっとも、この「距離」には「相手への尊重」という心理的姿勢が底になければならない。どのような例に対しても苦しさに耐える彼らへの「畏敬」、も…

佐世保市の女子高校生による事件と川崎市の中学生殺害事件

…立恐れて同調> 児童精神医療の現場では、こういう子どもたちに多く出会います。親と豊かな関係を持てている子どもであれば、軽蔑とは違う意味で「まったくうちの両親はね」と突き放すことができる。信頼感があるから、親を乗り越えていけるわけです。ところが貧しい関係しか結べなかった子どもは、その「まったく」が言えない。あるべき親子関係の虚像に、無理して自分を合わせて、つながりを保とうとするのです。 この不安の裏返しである「つながりへの欲求」は、親子や家庭に限らず日本社会の人間関係全般に強ま…

精神医療と支配

救う気がなくて支配しようとしている医療者に、僕は腹が立つんです。誇らしげに診断名だけつけたって、対処方法まで教えないと患者さんの利益にならないでしょ(神田橋條治(他 )『発達障害は治りますか?』花風社、2010年、p250)。 *いるいる、こういう精神科医。

精神病との共存

…活を送っている人も、精神医療を受けた時期のある人もある。こういう人が継続して精神医療を受けたほうがよかったかどうかは、距離を置いて眺め直してみる必要がある。われわれはわれわれの専門職が有効であり、あらゆる例に適用されるべきだちと考えがちである。しかし、それはすべての専門職の人間がもちやすい偏見である(中井久夫「医療における合意と強制」『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年(初出1988年)、p292)。 *さすがは中井久夫さん、「精神病との共存」は、宗教学者としてはよく理…

男性医師、精神鑑定で女性を裸に

…った。 女性が古川弁護士に相談して検査が発覚し、弁護士が地裁に報告。昨年7月に地裁で開かれた協議で、医師は裸にさせて検査したことを認め、「女性には事前に承諾を受けた。成育状況や傷を確認する必要があった」と説明したという。医師が作成した精神鑑定書には検査の経緯は記載されていなかった。古川弁護士は「全裸検査は一般的に不要で、今回も実施する特殊性はまったくない。鑑定の名を借りた性的虐待だ」と批判した。 *宗教界も基本的にジェンダー保守の世界ですが、精神医療業界もいい勝負のようです。

「人薬」ということ

…学的治療のみならず、精神医療全般の地図そのものが書き換えられる可能性がある。しかしそれを、たとえば「革命」などと呼ぶべきではないと私は考える。 そうした、見かけ上の混乱状況において、ありうる不変項が「人間」である。医療システムの臨界においてOPDが示唆しているのは、つまるところ“人間は人間によってしか癒やされない”という単純素朴な事実である。私たちは、繰り返し、この場所に立ち返るほかはない。その意味でOPDによる「人薬」と「現前性」の擁護は、メンタルヘルスの領域に限定されない…

放射能とポジティヴ思考 

…せん。クヨクヨしていれば受けます」「毎時100マイクロシーベルト以下なら、いずれにしても健康に害はありません」と講演で述べる様子が放送された。その功績によってか、山下教授は福島県立医大の副学長に就任した。原発事故に苦しみ、多くの被害者が仮設住宅や借り上げ住宅で日々を送る福島は、今やポジティヴ思考の草刈り場になっている(野田正彰『うつに非ずーうつ病治療の真実と精神医療の罪ー』講談社、2013年、p172)。 *これはひどすぎる。山下教授は、曲学阿世と言われても仕方ないでしょう。

うつ病と認知行動療法

昨夜、テレビ番組『ニュースキャスター』を視ていたら、「うつ病」の小特集をやって、何の実証的根拠も示さずに、「認知行動療法」で「考え方を鍛える」と「脳のネットワークが修復される」と報じていました。科学的になんら証明されていないことを報道して、視聴者を惑わせています。日本の宗教ジャーナリズムも程度が低いのですが、精神医療ジャーナリズムもいい勝負です。

超健康人幻想

…りに代わって登場した精神医療の基本線の一つとして)患者を「労働改造」させようとする。 (中略) 第二には、「健康人とは、どんな仕事についても疲労、落胆、怠け心、失望、自棄なぞを知らず、いかなる対人関係も円滑にリードでき、相手の気持ちがすぐ察せられ、話題に困らない」という命題である。患者の持つ超健康人幻想をつとにオランダのリュムケも指摘しているが、精神科医もこの幻想を分有しているかもしれない。 (中略) 「治る」とは「病気の前よりも余裕の大きい状態に出ること」でなければならない…

現代日本における「認知行動療法ブーム」への疑問ー宗教学の立場からー

…、大野裕氏のような「精神医療の専門家」ではなく、かつての美智子皇后にとっての女性精神科医、故・神谷美恵子氏のような、「聴きだすけ」(天理教)をしてくれる「何でも話せる同性の友人」ではないか、と考えている。 <参考文献> 笠原嘉『精神科と私−二十世紀から二十一世紀の六十年を医師として生きて−』中山書店、2012年 熊田一雄「『聴きだすけ』について」『愛知学院大学人間文化研究所所報』37号、2011年 熊田一雄「不安障害の信仰治療について−天理教の事例から−」『愛知学院大学文学部…

宗教と精神医学

…わらない)、社会の「精神医療温度」を二度でも三度でも上げてくださることである。 次に「アジール」というか、病人の「駆け込み場所」「しばしの隠れ家」を提供してくださることである。この点については、私の知人の何人かの宗教家に対する評価を惜しまない。 精神医学が「魂の救済」に全然無関係とはいえないだろうが、それを目指すものではなく、人間が病いに陥りながらそれを求めるときに、その素地をつくるとか、妨げるものをわずかでも除けばそれはボーナスのようなものである。この限定がなければ精神医療…

認知行動療法ブームに対する批判

…しています。 現在、精神医療の薬物療法に対する批判が大きくなってきています。多剤大量処方に代表される、薬の使い方の問題が大きくクローズアップされるようになりました。そして、単なる「使い方」の問題にとどまらず、薬物療法そのものの科学的根拠が揺らぎ始めています。 そこに出てきたのが認知行動療法です。では、認知行動療法とは、薬物療法に対するアンチテーゼとして登場したのでしょうか? 多くの人がそうだと誤解しているようですが、実情は全く違います。以前から生物学的精神医学(≒薬物療法)V…

雅子妃と認知行動療法

…科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う」(中井久夫)。 雅子妃の場合、インテリでなまじ精神医学やカウンセリングに一定の知識があったことが、仇になったのではないでしょうか。雅子妃にとって最も必要なのは、「精神医療の専門家」ではなく、(かつての)美智子皇后にとっての女性精神科医・神谷美恵子氏のような、「聴きだすけ」(天理教)をしてくれる「何でも話せる(同性の)友人」なのではないでしょうか。

体罰と日本社会

…。むしろ明治以後、体罰は兵舎から始まり、学校が兵舎をモデルにしたものになってゆき、一方ではそういう学校や兵舎を体験した者が父親になって体罰がひろまったのではないか。だから、体罰を伴うタカ派的教育を“スパルタ教育”といい、やまと言葉では表現できないのである。“軍隊式教育”と戦前はいったと思う(中井久夫「日本の家族と精神医療」『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫、2011年(初出1984年)、pp.106-107)。 *「体罰は日本の伝統」という保守派に聴いて欲しい文章です。

まず人柄を問うサリヴァンの方法

…。 クェーカー教徒は精神医療に親近性がある。「モラル・トリートメント」を編み出したのは彼らである。伝統的に米英の看護師はクェーカー教徒が多かった。サリヴァンの精神医療の無視できない背景であろう。サリヴァンの精神科医療は、表面的には精神分析を採り入れているけれども、実際は「モラル・トリートメント」の時ならぬ復活であったという見方も可能であろう。たとえば、彼の方法と、信仰を他に押しつけることを禁じるクェーカーの信条は無関係ではあるまい(中井久夫「分裂病は人間的過程である」同上、(…

EBMと精神医療

エビデンスが出るとみんなやり始める。効いたっていう現場での事実をエビデンスに取ればいいのに(神田橋條治『発達障害は治りますか?』花風社、2010年、p24)。 *EBM(Evidence Based Medicine)という思想は、精神医療の現場を貧しくしていると思います。

精神病的苦悩を宗教は救済しうるか

中井久夫「精神病的苦悩を宗教は救済しうるか」(『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年所収、初出1989年) 1.精神科医の立場から 2.宗教と精神医療のかかわり 3.この世に「馴染み」をもてない統合失調症患者 4.病気との共存はありうるか 5.「妄想」にどう対処していくか 6.こころの平衡が破れるとき 7.治療者があるかなきかの存在となるとき 8.触媒としての精神医療者

日本の宗教と「気働き文化」ー精神障がい者のおたすけについてー

…日本を含む先進諸国の精神医療では、「脱施設化」、つまり精神障がいの患者を病院のような隔離された医療施設に閉じ込め続けるのではなく、地域社会の中で一般の人々と共生する方法を模索する動きが活発である。その際、精神障がいの患者の地域社会における「受け皿」として、宗教団体に大きな期待が寄せられている。日本の宗教界も、社会からのこうした期待を敏感にキャッチしている。たとえば、天理教の機関誌『みちのとも』2012年9月号は、「精神障害(ママ)」に向き合う」という特集を組んでいる。精神障が…

こころに効く薬?

現代の精神医療の欺瞞の雰囲気は「こころに効く薬」というフレーズを採用したことに一因がある。向精神薬は脳に作用するのであり、こころに効くのではないというあっさりした真実に戻ってみることが必要である(神田橋條治「SSRIが登場してからの連想」『神田橋條治/精神科講義』創元社、2012年(初出「2006年の追記」)、p.141)。 *ごもっともです。