佐世保市の女子高校生による事件と川崎市の中学生殺害事件

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11382563.html より転載
 ■「一人でも大丈夫」と示そう 高岡健さん(児童精神科医岐阜大学准教授)


 1997年の神戸小学生連続殺傷事件以降、猟奇的な少年事件が起きるたび、特別な「異常者」による犯行とみなし、排除しようとする風潮が強まってきました。でも個人に原因を求めるだけでは、根本的な解決にはなりません。近年の日本社会が普遍的に抱える「関係の貧困」という課題として、とらえていくべきだと思います。
 7月に起きた長崎県佐世保市の女子高生による同級生殺害事件は、母の死や父の再婚など、様々な話題が取り沙汰されました。報道された限りの情報で私が着目したのは、女子生徒がせっかく選抜されたスケートの国体出場を嫌がり、「足が痛い」と言って棄権したことです。さらにもう一つ、小6のときに起こした給食の異物混入騒ぎのきっかけが、友達から「勉強ばかりして」と言われたことだったという話も、カギではないかと思いました。
 おそらく女子生徒は両親の期待を背負い、他人より秀でなければいけないという彼らの価値観に合わせてきたのでしょう。成功を目指して努力し、いい大学に行けば幸福が約束される。そんなシナリオがもはや幻想であることを、大人もそして誰より子どもたちが気づいている時代なのに、自分のチャンネルを変える発想がないように見える両親に、従おうとした。逆にいえばそういう選択肢しか、彼女にはなかったんだと思う。


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 <孤立恐れて同調> 児童精神医療の現場では、こういう子どもたちに多く出会います。親と豊かな関係を持てている子どもであれば、軽蔑とは違う意味で「まったくうちの両親はね」と突き放すことができる。信頼感があるから、親を乗り越えていけるわけです。ところが貧しい関係しか結べなかった子どもは、その「まったく」が言えない。あるべき親子関係の虚像に、無理して自分を合わせて、つながりを保とうとするのです。
 この不安の裏返しである「つながりへの欲求」は、親子や家庭に限らず日本社会の人間関係全般に強まっているように感じます。それほど目立たないものの、地方都市などで散発している週刊誌的にいえば「下流社会」の少年犯罪。これらもエリート家庭で起きた事件の根幹と無縁ではありません。彼らは集団になじめないのに孤立を恐れて同調する場合が目につきます。暴走族という集団が関係の貧困を補っていた一昔前と違い、連帯など成立しない時代なのに、自分をいびつな型に押し込める。そして破綻(はたん)してしまう。90年代以降、顕在化している傾向です。


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 <価値の混乱投影> こうした「ずれ」が生じる理由を、私はバブル崩壊後の「失われた20年」と大いに関係があるとみています。これまでの日本のやり方では立ちゆかないと、価値の転換が要請された。象徴が能力主義ですね。だれも守ってくれない、と頭ではわかっている。しかし新たな基準に自己イメージを合わせるのは、容易なことではありません。善悪の境界が希薄になったといわれる少年たちの逸脱行動は、社会の基準が大きく揺らぎ、混乱をきたしている過渡期の潮流を投影しているにすぎません。
 では、どうすればいいのか。
 今回の佐世保の事件で「心の教育」の限界が指摘されているように、もっと根本的な土台から考え直す必要があるのではないでしょうか。戦後教育は、文部省も日教組集団主義でした。理念はともかく、個人が第一に優先されるべきことを、本当の意味で教えてこなかった。
 いま急ぐべきは、「集団から外れて一人になっても大丈夫」と背中を押してあげることだと思います。映画「バトル・ロワイアル」を批判した政治家がいましたが、これは単なる少年たちの殺し合いの物語ではありません。個人が集団から抜け出せる可能性の道筋を、しっかりと示していた。
 LINEのいじめなど、IT環境が子どもたちの意識やコミュニケーションを悪い方向に変えた、と言われます。でも変わったのは手段だけ。皆が一人を攻撃する構造自体は同じです。そこを断ち切り、社会全体でも家庭でも、一人を前提にした連帯や豊かな関係性を具体的に築くことに、力を注ぐべきだと思います。
 (聞き手 藤生京子)


長崎県佐世保市の女子高生による同級生殺害事件の場合は、おそらく自閉症スペクトラム発達障害)の問題があったと思います。しかし、高岡健氏の見解も一面の真理をついていると思います。佐世保市の女子高校生による殺人事件のようなエリート家庭で起きた事件と、川崎市の中学生殺人事件のような週刊誌的にいえば「下流社会」の少年犯罪を、「関係の貧困」というキーワードで読み解き、「一人を前提にした連帯や豊かな関係性」を目指すことは、確かに必要なことだと思います。