2008-07-01から1ヶ月間の記事一覧

かもめ食堂―「男らしい国家」からの逃走

荻上直子監督の映画「かもめ食堂」(2006年)が佳作だったので、群ようこの原作「かもめ食堂」(幻冬舎、2006年)も読みました。本の帯には、以下のようにあります。 毎日ふつうで、おいしくて、小さいけれど堂々としていました。 ヘルシンキの街角にある「…

天使のたまご―個人化された社会における重要な他者

中澤英雄さんは、カフカの思想を「神話的要素を抜き去ったグノーシス主義」として分析しています。 押井守監督の傑作OVA「天使のたまご」も、同様に分析することができると思います。http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~nakazawa/Kafka/nazo1.htmより転載 ハン…

現代日本の宗教文化と「カフカ的なるもの」

現代日本におけるニヒリズムについて。 東京大学の島薗進氏は、現代日本の宗教状況について、「軽薄なまでの明るさの追求とグノーシス主義的なニヒリズムが共存している」という大局観をお持ちだと思います。間違いではないと思いますし、グノーシス主義に対…

ゴス・カルチャーとグノーシス主義

http://ameblo.jp/le-corps-sans-organes/entry-10040625272.htmlより引用 ゴス・カルチャーは、死を意識した生の文化ではないか。暗黒というよりは、暗黒を意識しているがゆえに燃え上がる炎の文化。言うなれば、グノーシス主義的思考のヴァリエーションで…

怖い人形の写真

たまには、堅い話は抜きにして、怖い人形の写真を紹介しておきます。http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/113751159 ロボット工学で「不気味の谷」現象というそうですが、人間は、「人間そっくりの姿形」でも「まるで違った姿形」でも怖くないが、…

牧口常三郎と総力戦体制

いわゆる「滅私奉公」は、一生に一度しか行えない理想である。この非常道徳を銃後の生活に強行しようとするには無理である(辻武寿(編)「牧口常三郎箴言集」第三文明社、1979年、p171)。 牧口のこの言葉から、牧口が1930年代に始まった「総力戦体制」に違…

意地と粋について

九鬼周造が「『いき』の構造」(1930年)で論じたように、「粋」は「意気地」の霊化されたものです。しかし、逆は真ならずで、たいていの「意地」は「野暮」です。「自分という存在の正しさを証明する」ものである「意地」には、自己中心性と視野狭窄が伴い…

「幡随院長兵衛もの」はなぜ復活しなかったか

大正時代には、講談や歌舞伎などの大衆文化を通じて「国民の一般常識」にまでなっていた、江戸時代初期の伝説の侠客を扱った「幡随院長兵衛」ものがなぜ第二次世界大戦後復活しなかったのかを考えてみました。それは、戦後は「官憲の横暴」がなくなったから…

「鉄の檻」の志願囚人

1990年代以降の、日本の若者の「自分探し」ブームは、結局は「新自由主義の罠」だったのではないでしょうか?M・ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の末尾で警告した、近代産業資本主義の「鉄の檻」を生きる「精神のこびと」、「精神なき…

牧口常三郎の任侠精神

以下の文章は、1983年に行われた「回想の牧口先生」という創価学会会員の座談会の記録です。 和泉 私は戦争から復員して、「牧口先生の顔」という講演を、総会でやったことがあるんですよ。怖い顔と怖くない顔と、冬の寒い夜なんか赤ちゃんおんぶして(熊田…

牧口常三郎と反骨心

牧口(あるいは明治人一般)の反骨心に影響を与えた要素は、もちろん、幡随院長兵衛もの以外にもたくさんあったと思います。戊辰戦争の「賊軍」の地で生誕したこと、貧困層での生い立ち、北海道師範学校時代の「押しつけ」の国家主義的教育への反発、等々。…

救いを「待っている」人々

以下の文章は、作家・安部公房(1924-1993)のノートです。カフカの短編小説を思わせるシャープな短文です。 二人の浮浪者の話。自殺したがっている浮浪者の訴えを聞いて、仲間の浮浪者がすっかり同情してしまう。どこかで手に入れた残り物のウイスキーで酒…

牧口常三郎と時代の制約

牧口常三郎は「最低限の道徳」として教育勅語や天皇への忠義を認めているのですから、「時代の制約を超越した」とまではいえないと思います。「軍閥と共産党は日本を滅ぼす」と主張した新渡戸稲造とその親友の牧口常三郎は、「天皇=幕府/官憲=旗本奴/自分…

牧口常三郎と天皇制

第三文明社(編)「牧口常三郎と獄中の闘い」第三文明社、2000年に、牧口の天皇観が記録されています。 私は学会の座談会の席や、また会員その他の人に個々面接の際度々陛下のことに関しまして、天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通われ、…

新渡戸稲造と「幡随院長兵衛」

新渡戸稲造が幡随院長兵衛について書いた文章をアップしておきます。新渡戸稲造と牧口常三郎は「郷土会」で20年以上親しく付き合っていましたから、影響関係を想定するのはムリではないでしょう。この文章が収められている、1916年(大正6年)に実業之日本社…