意地と粋について

 九鬼周造が「『いき』の構造」(1930年)で論じたように、「粋」は「意気地」の霊化されたものです。しかし、逆は真ならずで、たいていの「意地」は「野暮」です。「自分という存在の正しさを証明する」ものである「意地」には、自己中心性と視野狭窄が伴います。意地は、本来は非常事態を乗り切るためのものなのでしょう。強者から「いじめ」にあったら、弱者は意地を張るしかありません。意地は、無冠の弱者にのみ許されると思います。だから、「あしたのジョー」は大衆文化の不滅の名作なのです。強者の意地は、単にはた迷惑なだけです。逆に、弱者には「粋」に振る舞うだけの余裕がない。だから、創価学会をはじめ、大半の新宗教は「野暮」です。弱者は意地を張ってもよいが、強者は粋に振る舞うべきでしょう。

参考文献:佐竹洋人・中井久夫(編)「『意地』の心理学」創元社、1987年