明治日本の宗教者とエートスとしての<侠>

愛知学院大学文学部紀要38号原稿(2009年3月刊行)

<題名>明治日本の宗教者とエートスとしての<侠>
<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)

<要旨>
 この論文の目的は、近代日本における宗教と男性性(マスキュリニティーズ)という問題意識に基づき、明治日本の宗教者と<侠>という「エートス」の関連を分析することにある。「武士道」で知られる新渡戸稲造(1862-1933)、近代的な霊界のイメージを確立した大本の聖師・出口王仁三郎(1871-1948)、創価学会(当時は創価教育学会)の創始者牧口常三郎(1871-1944)の思想を大衆文化との関連という角度から再検討して、この3人が江戸後期から明治にかけて講談や歌舞伎の題材として一般大衆に大変人気のあった「侠客もの」と共鳴していたことを論証する。そして、経済のグローバリズム新自由主義的潮流の中で、「エートスとしての<侠>」=「侠気」は再評価されるべきものではないかという問題提起を行う。

<キーワード>
宗教と男性性/明治日本の宗教者/<侠>/エートス/新自由主義と「侠気」


―「侠」=「人と、音符・夾(たのむ意)とから成り、自分の力をたのみにして人に協力する人、『おとこだて』の意を表す。」(「角川 新字源 改訂版」)
―「上のものとしか喧嘩をするな」(牧口常三郎

1.問題の所在―「エートス」としての「侠」
 1975年に、映画評論家の佐藤忠男は、全共闘運動と三島事件をうけて、次のように彼の言う「原始任侠道」の可能性について語っている。

(前略)とはいえ、原始任侠道についての文献的資料といったものがあるわけではない。それは、江戸時代の初期・中期の男伊達の物語やら、近くは長谷川伸の小説やらを手がかりにして想像されるものであるにすぎない。しかしながら、それは、たしかにあったはずのものであり、民衆的正義感の心のふるさとのようなものなのである。それは偉大なる原典といったものをもたず、数多くの物語の中をつかまえどころのない曖昧な存在としてただよっているだけなので、密輸入された武士道の私生児のようなものにされてしまったり、ファシズムに飼い慣らされたりもする。しかし、明治はじめに、北村透谷は、「徳川氏時代の平民的理想」という論文で、徳川時代に民衆がつくったモラルで見るべきものは任侠思想くらいのものであると書いている。そう言われても、およそ任侠とか義理人情とかいうものとは縁もゆかりもないはずの暴力団が任侠思想の継承者という看板をかけているため、誰もそんなことを信じないわけだが、だとすれば、かつて北村透谷が明言したところの「平民的理想」が、今日、その担い手を失って宙をさまよっているというところにこそ、日本の民衆思想史の重要な問題点があるのだと思う。ただ、全共闘運動だけは、現在の日本にも侠気というものが確実に存在することをわれわれに示したし、それはマルクス主義よりも原始任侠道に近いものを感じさせる思想的事件だと思う。自分を上流階級であると想定する三島由紀夫は、全共闘運動の中に、マルクス主義以上に、むしろ原始任侠道の復活を見ておびえたのではないか。そしてこれを、武士道によって超克しようとしたのではないか。私にはそんな風に感じられる。その意味では、三島由紀夫は、昭和元禄における水野十郎左右衛門かもしれない。
 義理人情の原理は忠義の原理をこえるものにきたえあげられなければならない(佐藤2004、p29-30)。

 私は、三島由紀夫全共闘におびえたとは思わない。私が佐藤忠男の議論に付け加えるならば、佐藤の言う「原始任侠道」は、佐藤忠男(および佐藤の世代の男性論客)の無自覚な「男性中心主義」をこえるものにきたえあげられなくてはならない。また、佐藤による北村透谷の論文の引用は、正確ではない。正確には、キリスト教徒(クェーカー派)であった北村透谷(1868-1894)は、江戸時代に平民が生んだ思想でキリスト教社会における騎士道に匹敵するものは、「侠」(「女侠」を含む)と「粋」くらいである、と述べている(北村1892)(1)。
 「角川新字源―改訂版」(角川書店、1994年)では、「侠」という漢字は、「人と、音符・夾(たのむ意)とから成り、自分の力をたのみにして人に協力する人、『おとこだて』の意を表す。」とある(p62)。「侠」は、神仏儒の宗教伝統にはない概念だが、「倫理的態度の血肉化されたもの」という意味で、マックス・ウェーバー社会学でいう「エートス」として位置づけることができるだろう(ウェーバー1920)。佐藤忠男の言う「原始任侠道」は、社会学の見地からは、「エートスとしての<侠>」と言い換えることができるだろう。
 この論文の目的は、明治時代の日本の宗教界には、濃密な「エートスとしての<侠>」が確かに存在したことを、「武士道」で知られる新渡戸稲造(1862-1933)、近代的な霊界のイメージを確立した大本の聖師・出口王仁三郎(1871-1948)、創価学会(当時は創価教育学会)の創始者牧口常三郎(1871-1944)の3人を例として実証することにある(2)。

2.大衆文化における幡随院長兵衛もの
 「エートスとしての<侠>」を表現している代表的な物語は、歌舞伎や講談における幡随院長兵衛ものであろう(ex.講談全集1954、戸坂1970)。北村透谷も、上記の論文で歌舞伎の幡随院長兵衛ものに言及している。幡随院長兵衛は江戸時代初期の伝説的な侠客で、江戸後期から明治にかけて、歌舞伎や講談で好んで題材として取り上げられていた。
 しかし、現代日本の若者は、もはや幡随院長兵衛の名前すら知らないであろう。明治時代には大衆文化においてたいへん人気のあった幡随院長兵衛ものがなぜ消えてしまったのかは、それ自体興味深い研究テーマである。足立によれば、大正時代の大衆文芸を代表し、昭和の大衆文芸の母体ともなった「立川(たつかわ)文庫」には、江戸末期から明治にかけて全盛期を迎えた「講談」芸のなかの「侠客もの・義賊もの・女賊もの」が全く見られない(足立1987)。こうした物語は、「天皇制のカルト」が推進した、「天皇への忠義」を中心にした日本人の「臣民化」にとって不要なものだったのだろう。明治人が戦争に抵抗できなかった点に関しては、大正時代に国定教科書にまで載せられた「忠臣蔵」ものの影響も大きかったと思われる。戦中派の佐藤忠男は、戦争中国民は「気分は忠臣蔵」だったと、その点を丁寧に分析している(佐藤2007)。
 幡随院長兵衛ものが第二次世界大戦後にも復活しなかった理由は、戦後は「官憲の横暴」がなくなったことにあるだろう。
 講談研究の専門家に訊いても、歌舞伎研究の専門家に訊いても、幡随院長兵衛ものの研究は、歌舞伎の劇評くらいしか存在しない、ということである。研究者が大衆文芸に興味を持ち始めた頃には、幡随院長兵衛ものはもう流行らなくなっていたのだろう。「水戸黄門」や「遠山の金さん」の変わらぬ大衆人気を見ると、日本人の「お上」意識に大きな変化があったとは思えない。にもかかわらず幡随院長兵衛ものが消えたのは、江戸の町人の味方「町奴」に敵対していた「白柄組」のような「旗本奴」、「お上」の威光を傘に着て、庶民に横暴をはたらく集団が消滅したからだろう。
 逆に言えば、江戸後期から明治時代にかけての民衆には、「官憲」はまだ時として「旗本奴」のように見えて、「旗本奴」が長兵衛にやっつけられるのを見て、民衆は溜飲を下げていたのではないだろうか。それに対して、「悪代官」や越後屋のような悪徳役人(政治家・官僚)・悪徳商人(大企業)のイメージは、今でも民衆に保持されているので、「水戸黄門」や「遠山の金さん」は依然として人気があるのだろう。
 
3.新渡戸稲造の場合
 この論文では、明治時代の日本の宗教界に「エートスとしての<侠>」が確かに存在したことを、新渡戸稲造出口王仁三郎牧口常三郎の3人を例として実証するが、出口王仁三郎の場合が一番わかりやすい。出口王仁三郎は、宗教家として「神道界の任侠」を名乗るようになる前は、「明治の幡随院長兵衛たらん」と公言していた(出口1967、p42-44)。
 それに対して、新渡戸稲造の場合は誤解されていることが多い。新渡戸を「武士道」の賞賛者と見るのは、新渡戸の生前から最近の藤原正彦によるベストセラー「国家の品格」にまで見られる通俗的な誤解である(太田2006、p152-154)。新渡戸は「武士道」の最終章で、これまで述べてきた武士道はしょせん封建社会の道徳で滅びゆくものであり、これからの日本に必要なのは武士道ではなく「平民道」(Democracyに対して新渡戸があてた訳語)である、そして平民道とは、江戸時代のオトコダテの精神である、とはっきり述べている。おそらく新渡戸は、北村透谷の上記の論文を読んでいたであろう。

 <武士道>の精神がすべての社会階級にどのように浸透したかは、またオトコダテとして知られる特定階級の人たち、すなわち平民道の天成の指導者たちの発達によっても知られる。彼らは頼りになる男であって、頭の頂から足の先まで、堂々たる男子の力を、たくましく備えていた。民衆の権利の代弁者であり、同時にその保護者でもある彼らは、それぞれ数百人、数千人の子分をもっており、これら子分は、サムライがダイミョウにしたのと同じ仕方で、「手足と生命、身体、財産および地上の名誉」を喜んで捧げて、彼らに仕えた。向う見ずで衝動的な働き人の大群衆の師事を背に、これら生まれながらの「親分たち」は、二本差階層ののさばりを阻む、恐るべき抑止力をなしていた(新渡戸2000、p218)。

 ただし、「オトコダテ」の精神が、歴史的に実在した訳ではなくて新渡戸が<発明>したものにすぎない「武士道」から生じたという見解は、現代の観点からすれば、明らかに間違いである。
 新渡戸稲造がオトコダテと幡随院長兵衛について書いた文章を引用しておく。この文章が収められている、1916年(大正6年)に実業之日本社から出版された新渡戸稲造の修養書・「自警」は、昭和4年には15版を数えた当時のベストセラーである。この文章で幡随院長兵衛について何の説明もしていないことから、当時の読書人にとっては、幡随院長兵衛は講談本を通して説明の必要がない一般常識として共有されていたこともわかる。

男伊達の行為よりその精神を酌め

 我輩は常に男伊達の制度を景慕するものである。就中(なかんずく)幡随院長兵衛の如き、之を談話に聞いても、書籍に読んでも、実に我意を得た者として尊崇せざるを得ぬ。任侠の標榜する所には、些細なる点に於いて誠に児戯に似たることも少なくない。例えば手拭はどう持つものかとか、尺八はどう挿すかとか、帯は如何に結ぶかとか、語尾は如何に発音するかといふが如き、愚なことではあるが、其子分として用いた者が多くは無学の熊公八公の類であったから、斯くの如き紋切型(コンベンション)を設け、之に由りて統御の便を計ったのも、或は止むを得なかったことであろう。此等の些細の事柄は笑ふべきではあったが、又大体に於いて彼等の為す所、物騒の傾向なきにあらざりしも、その動機に於ては如何にも男性的で、子分の顔を立てる為には自分に不利益なるけんかも買うたことであろう。自分の命を投げ出したこともあり、強を挫き弱を扶(たす)くるを主義とし、義と見れば如何なることにも躊躇しなかった。この任侠の勇猛な性質は、勘定高き現今の社会に於いて大に珍重すべきものと思ふ。さりとて我輩は、法律もロク⌒備はらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治の下にそのまゝに実行することは断じて非なりと信ずる故に、仮令当年の男伊達の意気を思慕するとは云へ、今日の男一匹は長兵衛その儘を写して可なりとも思わぬ。争議起れば、今日は之を治むる為に相応の法定機関がある。之によりて是非曲直を判断すべく、妄りに腕力を用ふることを許さぬ。故に我輩は外部に表れた男伊達の行為よりも、寧ろこの行為を生み出した任侠の心持が欲しいのである。即ち「男は気で食へ」「男前よりは気前」などと云ふ所の男性的気象が欲しいのである(新渡戸1970、p423-424)。

 新渡戸が、「武士道」の賞賛者ではなく、実は「エートスとしての<侠>」の賞賛者であったことがはっきりとわかる文章である。

4.牧口常三郎の場合
 生前からベストセラー作家であった新渡戸と異なり、創価学会(当時は創価教育学会)の創始者である牧口常三郎は寡作であり、また自分のことを語ることが少なかったので、牧口の生活史について確実に判明している事実は乏しい。従って、牧口が「エートスとしての<侠>」を体現していたことを実証することは、出口王仁三郎新渡戸稲造の場合と比べると、はるかに困難である。しかし、牧口は小学校校長をしていた時代に、教え子たちのために地元の有力な政治家の不当な圧力と闘い、結果的には事実上の辞職に追い込まれている(PUMPKIN VISUAL BOOKS、2001年)。このエピソードは、牧口が「エートスとしての<侠>」を体現していたことを示しているように思われる。
 また、次の記録は、牧口が「エートスとしての<侠>」を体現していたことを明確に示している。以下の文章は、1983年に行われた「回想の牧口先生」という創価学会会員の座談会の記録である。

和泉 私は戦争から復員して、「牧口先生の顔」という講演を、総会でやったことがあるんですよ。怖い顔と怖くない顔と、冬の寒い夜なんか赤ちゃんおんぶして(熊田註;創価教育学会に)女の人が相談にくる、帰る時にね、牧口先生がおぶい半纏の間に、新聞紙をはさんでご自分で着せてあげるんです。「新聞紙一枚で、きものひとつ分違うんだよ」
 そんなときは、好々爺のおじいちゃんなんだが、さあ怒るとなったら、怖いなんてものじゃない。まず、なんで叱られているのか、よく考えてみないとわからない(笑)。
小泉 喧嘩のやり直しね。上のものとしか喧嘩をするなと、我々は教員だから相手は校長です。それでやり方が弱くてひきさがってこようものなら、もう一回やり直しとくる(竹内2008、p10)。

 「子分の顔を立てる為には自分に不利益なるけんかも買うたことであろう。自分の命を投げ出したこともあり、強を挫き弱を扶(たす)くるを主義とし、義と見れば如何なることにも躊躇しなかった。」と新渡戸稲造が形容する、幡随院長兵衛ものに代表されるような「男伊達の精神」、私の言う「エートスとしての<侠>」を、親友だった牧口もまた体現していたことをよく示している記録である。新渡戸稲造牧口常三郎は、新渡戸が主催した研究会である「郷土会」で20年以上親しく付き合っていたから、影響関係を想定するのは無理ではないだろう。
 また、牧口がたいへんな歌舞伎好きであったこともわかっている。次の文章は、創価教育学会の渉外を担当していた矢嶋秀覚の証言である。

 先生はまた歌舞伎が大変お好きでした。毎月必ず一回は奥様といっしょにお出かけになった。その時のうれしそうな、楽しそうなお姿が今でも目に浮かぶ気がします(聖教新聞社(編)1972、p478)。

 おそらく牧口は、1881年明治14年)に初演された、河竹黙阿弥の人気演目「極付幡随長兵衛」を見ていただろう(戸坂1970)。

 以下の文章は、新渡戸が牧口のライフワーク「創価教育学大系」に寄せた序文である。

 独創的教育の要諦は行詰まったときに自分の力でその局面を打開し、他人の力に依頼しないような堅実なる人を養成することである(新渡戸稲造創価教育学体系への序」牧口1965、p396、原文1930年)。

 新渡戸と牧口が、キリスト教(クェーカー派)と仏教(日蓮正宗)という宗教の相違を超えて、「エートスとしての<侠>」という点で深く共鳴していたことを示す文章である。牧口常三郎が構想した「創価教育」とは、また<侠育>でもあったのではないか。
 牧口の反骨心、私の言う「エートスとしての<侠>」に影響を与えた要素は、もちろん、幡随院長兵衛もの以外にもたくさんあっただろう。戊辰戦争の「賊軍」の地で生誕したこと(この点は新渡戸も同じである)、貧困層での生い立ち(竹内2008)、北海道師範学校時代に「押しつけ」の国家主義的教育に反発したこと(聖教新聞社(編)1972、斎藤2004)、等々。ただ、これまでの牧口研究(あるいは宗教研究一般)では、「エートスとしての<侠>」(あるいは一般に大衆文化)の影響が無視されてきたので、私としてはその点に注目を促したいのである。

5.結論―新自由主義と「侠気」のゆくえ
 前節までで、近代的な「霊界」のイメージを確立した大本の聖師・出口王仁三郎(1871-1948)、「武士道」で知られる新渡戸稲造(1862-1933)、創価学会(当時は創価教育学会)の創始者牧口常三郎(1871-1944)、という3人の近代日本における反骨の宗教者たちが、「エートスとしての<侠>」に強く影響されていたことを論証した。
 近代日本の思想史を研究している武田清子は、新渡戸稲造キリスト教受容の方法を、「接木型」と分類している(武田1995)。

 日本の伝統的な価値の中から、台木になる要素のあるものを掘り起こしてくる。そこへキリスト教、いいかえれば普遍的な価値を接ぐという考え方です(同上、p79)。

 武田の議論を拡張して、「エートスとしての<侠>」を神道(および西欧近代の神秘主義)と「接木」した王仁三郎、キリスト教(クェーカー派)と「接木」した新渡戸、仏教(日蓮正宗)と「接木」した牧口、と図式化することも可能であろう。
 私は、「エートスとしての<侠>」を「侠気」と言い換えたい。「義侠心」という言葉は、武士道を連想させるので回避する。「侠気」は、近現代日本の宗教、特に新宗教(「民衆宗教」と言ってよいかもしれない)の歴史を考える上で、とても重要な概念である。2001年に誕生した小泉政権が推進した新自由主義的改革(小さな政府と市場主義的競争原理の重視)によって、日本社会ではすべてを個人の「自己責任」に帰する言説が広まった。そうした新自由主義的風潮の中で、佐藤忠男のいう「民衆的正義感のふるさと」である「侠気」は、どこへいくのだろうか。
 2000年代に入って、日本社会では、マンガ=TVドラマ「ごくせん」が大ヒットした(森本2000-2007)(3)。やくざ(組織暴力団ではなく、「堅気に迷惑はかけない」という、現実には存在しそうにもない「理想化された」やくざ)の組長の一人娘(「お嬢」)が教師となり、落ちこぼれの集まるヤンキー男子高校に赴任して、「下流化」した(価値観のコンサマトリー化・脱能力主義化が進んだ)若者の間に、新自由主義的秩序に対するオルタナティヴな秩序を作り上げていく物語である。21世紀初頭に「侠気」の担い手となるのは、「強くなった女性」と「わがままになった若者」なのではないだろうか(4)。
 「ごくせん」のヒロイン「ヤンクミ」は、平成の牧口常三郎なのかもしれない。

<註>
(1)「侠」だけではなく「粋」の復権現代日本の宗教文化を考える上で大きな問題であるが、紙数の都合上、この論文では「粋」は論じない。「粋」については、例えば中井久夫の論考を参照されたい(佐竹・中井(編)1987、p302-303)。
(2)天理教のような幕末維新期の初期新宗教にも、濃厚に「エートスとしての<侠>」が存在した(熊田2008)。
(3)「ごくせん」は、韓国・台湾にも輸出されてやはり大ヒットした。「侠」は、「宗教が政治に従属する」という意味での世俗化が近世という早い時期に完成した東北アジアに共通する問題かもしれない。「侠」の比較文化的研究は、今後の課題としたい。
(4)21世紀初頭の日本では、「強くなった女性」が社会を改良する鍵を握る、という展望については、拙著を参照されたい(熊田2005)。

<謝辞>
 本稿は、「民衆宗教」研究会で口頭発表した内容に加筆修正を施したものである。また、本稿を草稿の段階で東京大学島薗進氏に読んでいただき、貴重なアドヴァイスを賜った。「民衆宗教」研究会のメンバーと島薗氏に、記して深く感謝したい。

<参考文献>
足立巻一立川文庫の英雄たち」中公文庫、1987年
太田愛人「『武士道』を読む―新渡戸稲造と『敗者』の精神史」平凡社新書、2006年
小川環・西田太一郎・赤塚忠(編)「角川 新字源 改訂版」角川学芸出版、1994年
北村透谷「徳川氏時代の平民的理想」青空文庫、原文1892年
http://mobile.seisyun.net/cgi/bgate/000157__43442_16863
熊田一雄「男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学」風媒社、2005年
      「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年
講談全集「幡随院長兵衛」大日本雄弁会講談社、1954年
斎藤正二「斎藤正二著作選集」第7巻、八坂書房、2004年
佐竹洋人・中井久夫(編)「『意地』の心理」創元社、1987年
佐藤忠男長谷川伸論―義理人情とはなにか」岩波現代文庫、2004年(初出1975年)
      「草の根軍国主義平凡社、2007年
聖教新聞社(編)「牧口常三郎聖教新聞社、1972年
武田清子「戦後デモクラシーの源流」岩波書店、1995年
竹中労「庶民烈伝―牧口常三郎とその時代(上)」三一書房、2008年
出口京太郎「巨人 出口王仁三郎」天声社、2001年(初版1967年)
戸坂康二(他)監修「名作歌舞伎全集」第12巻、東京創元社、1970年
新渡戸稲造新渡戸稲造全集」第7巻、教文館、1970年
新渡戸稲造(佐藤全弘訳)「武士道」教文館、2000年(原文1900年)
牧口常三郎牧口常三郎全集」第1巻、東西哲学書院、1965年
マックス・ウェーバー大塚久雄訳)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波書店、1988年(原著1920年
森本梢子「ごくせん」1-15巻、集英社、2000-2007年
PUMPKIN VISUAL BOOKS「創価教育の源流―牧口常三郎潮出版社、2001年