新渡戸稲造と「幡随院長兵衛」

 新渡戸稲造が幡随院長兵衛について書いた文章をアップしておきます。新渡戸稲造牧口常三郎は「郷土会」で20年以上親しく付き合っていましたから、影響関係を想定するのはムリではないでしょう。この文章が収められている、1916年(大正6年)に実業之日本社から出版された新渡戸稲造の修養書・「自警」は、昭和4年には15版を数えた当時のベストセラーです。この文章で幡随院長兵衛について何の説明もしていないことから、当時の読書する青年にとっては、「幡随院長兵衛」は講談や講談本を通して説明の必要がない一般常識として共有されていたことがわかります。


男伊達の行為よりその精神を酌め

 我輩は常に男伊達の制度を景慕するものである。就中(なかんずく)幡随院長兵衛の如き、之を談話に聞いても、書籍に読んでも、実に我意を得た者として尊崇せざるを得ぬ。任侠の標榜する所には、些細なる点に於いて誠に児戯に似たることも少なくない。例えば手拭はどう持つものかとか、尺八はどう挿すかとか、帯は如何に結ぶかとか、語尾は如何に発音するかといふが如き、愚なことではあるが、其子分として用いた者が多くは無学の熊公八公の類であったから、斯くの如き紋切型(コンベンション)を設け、之に由りて統御の便を計ったのも、或は止むを得なかったことであろう。此等の些細の事柄は笑ふべきではあったが、又大体に於いて彼等の為す所、物騒の傾向なきにあらざりしも、その動機に於ては如何にも男性的で、子分の顔を立てる為には自分に不利益なるけんかも買うたことであろう。自分の命を投げ出したこともあり、強を挫き弱を扶(たす)くるを主義とし、義と見れば如何なることにも躊躇しなかった。この任侠の勇猛な性質は、勘定高き現今の社会に於いて大に珍重すべきものと思ふ。さりとて我輩は、法律もロク⌒備はらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治の下にそのまゝに実行することは断じて非なりと信ずる故に、仮令当年の男伊達の意気を思慕するとは云へ、今日の男一匹は長兵衛その儘を写して可なりとも思わぬ。争議起れば、今日は之を治むる為に相応の法定機関がある。之によりて是非曲直を判断すべく、妄りに腕力を用ふることを許さぬ。故に我輩は外部に表れた男伊達の行為よりも、寧ろこの行為を生み出した任侠の心持が欲しいのである。即ち「男は気で食へ」「男前よりは気前」などと云ふ所の男性的気象が欲しいのである。

新渡戸稲造「自警」、初版1916年(大正5年)第一章「男一匹」より引用、「新渡戸稲造全集」第七巻所収、教文社、1970年、p423-424