近代日本における宗教と侠気

 「武士道」で知られる新渡戸稲造(1862-1933)、創価学会(当時は創価教育学会)の創始者牧口常三郎(1871-1944)、近代的な「霊界」のイメージを確立した大本の聖師・出口王仁三郎(1871-1948)という3人の近代日本における「反骨の知の巨人たち」共通点は、江戸後期から明治にかけて歌舞伎や講談で民衆に大変人気のあった「幡随院長兵衛もの」におそらく深く共感していたという点です。「幡随院長兵衛」的なる反骨精神をキリスト教(クエーカー派)と結びつけた新渡戸、仏教(日蓮正宗)と結びつけた牧口、神道(西欧の近代神秘主義)と結びつけた王仁三郎、と図式化することもできます。
 新渡戸を「武士道」の賞賛者と見るのは、新渡戸の生前から最近の藤原正彦によるベストセラー「国家の品格」にまで見られる通俗的な誤解で、新渡戸は「武士道」の最終章で、「これまで述べてきた武士道はしょせん封建社会の道徳で滅びゆくものであり、これからの日本に必要なのは武士道ではなく『平民道』(Democracyに対して新渡戸があてた訳語)である。平民道とは、江戸時代のオトコダテの精神である。」とはっきり述べています。新渡戸は牧口の著作「人生地理学」を高く評価し、自身の主催する研究会である「郷土会」に牧口を参加させていました。日本民俗学の父・柳田国男(1875-1962)もそのメンバーで、牧口と柳田は一緒に研究調査もしています。ただし、牧口が法華経の話を始めると、新渡戸は牧口を追い返したそうです。ふたりの宗教観の相違は、会津藩の名門武家の出身だった新渡戸と、柏崎の漁網作りに育てられた牧口の、出身階層の相違と関連していそうです。牧口が大変な歌舞伎好きであったことも確かです。出口王仁三郎は、宗教家として「神道界の任侠」を名乗るようになる前は、「われ明治の幡随院長兵衛たらん」と宣言していました。明治時代に「幡随院長兵衛もの」がもっていた影響力の実証的研究は、今後推進されねばなりません。