牧口常三郎

明治日本の宗教者とエートスとしての<侠>

愛知学院大学文学部紀要38号原稿(2009年3月刊行)<題名>明治日本の宗教者とエートスとしての<侠> <著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)<要旨> この論文の目的は、近代日本における宗教と男性性(マスキュリニティーズ)という問題意識に基づき、明…

<侠育>としての創価教育

「角川新字源―改訂版」(角川書店、1994年)では、「侠」という漢字は、「人と、音符・夾(たのむ意)とから成り、自分の力をたのみにして人に協力する人、『おとこだて』の意を表す。」とあります(p62)。「侠」は、神仏儒の宗教伝統にはない概念ですが、…

民衆的正義感としての「侠気」

(前略)とはいえ、原始任侠道についての文献的資料といったものがあるわけではない。それは、江戸時代の初期・中期の男伊達の物語やら、近くは長谷川伸の小説やらを手がかりにして想像されるものであるにすぎない。 しかしながら、それは、たしかにあったは…

牧口常三郎と総力戦体制

いわゆる「滅私奉公」は、一生に一度しか行えない理想である。この非常道徳を銃後の生活に強行しようとするには無理である(辻武寿(編)「牧口常三郎箴言集」第三文明社、1979年、p171)。 牧口のこの言葉から、牧口が1930年代に始まった「総力戦体制」に違…

「幡随院長兵衛もの」はなぜ復活しなかったか

大正時代には、講談や歌舞伎などの大衆文化を通じて「国民の一般常識」にまでなっていた、江戸時代初期の伝説の侠客を扱った「幡随院長兵衛」ものがなぜ第二次世界大戦後復活しなかったのかを考えてみました。それは、戦後は「官憲の横暴」がなくなったから…

牧口常三郎の任侠精神

以下の文章は、1983年に行われた「回想の牧口先生」という創価学会会員の座談会の記録です。 和泉 私は戦争から復員して、「牧口先生の顔」という講演を、総会でやったことがあるんですよ。怖い顔と怖くない顔と、冬の寒い夜なんか赤ちゃんおんぶして(熊田…

牧口常三郎と反骨心

牧口(あるいは明治人一般)の反骨心に影響を与えた要素は、もちろん、幡随院長兵衛もの以外にもたくさんあったと思います。戊辰戦争の「賊軍」の地で生誕したこと、貧困層での生い立ち、北海道師範学校時代の「押しつけ」の国家主義的教育への反発、等々。…

牧口常三郎と時代の制約

牧口常三郎は「最低限の道徳」として教育勅語や天皇への忠義を認めているのですから、「時代の制約を超越した」とまではいえないと思います。「軍閥と共産党は日本を滅ぼす」と主張した新渡戸稲造とその親友の牧口常三郎は、「天皇=幕府/官憲=旗本奴/自分…

牧口常三郎と天皇制

第三文明社(編)「牧口常三郎と獄中の闘い」第三文明社、2000年に、牧口の天皇観が記録されています。 私は学会の座談会の席や、また会員その他の人に個々面接の際度々陛下のことに関しまして、天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通われ、…

新渡戸稲造と「幡随院長兵衛」

新渡戸稲造が幡随院長兵衛について書いた文章をアップしておきます。新渡戸稲造と牧口常三郎は「郷土会」で20年以上親しく付き合っていましたから、影響関係を想定するのはムリではないでしょう。この文章が収められている、1916年(大正6年)に実業之日本社…

侠客としての牧口常三郎

軍部に抵抗して獄死した、創価学会(当時は創価教育学会)の初代会長・牧口常三郎(1871-1944)は、旗本奴(権力)の横暴に抵抗して惨殺された町奴、江戸時代初期の伝説的侠客「幡随院長兵衛」を主人公とした歌舞伎の影響を受けていたのではないでしょうか。…

創価学会と男性史

創価学会の歴代会長を男性史研究に引きつけて単純化すれば、「幡随院長兵衛」的な牧口常三郎、「清水の次郎長」的な戸田城聖、「プロジェクトX」的な池田大作、というように図式化できるように思います。戸田城聖は「三国志」「水滸伝」を愛読書としていたそ…