民衆的正義感としての「侠気」

(前略)とはいえ、原始任侠道についての文献的資料といったものがあるわけではない。それは、江戸時代の初期・中期の男伊達の物語やら、近くは長谷川伸の小説やらを手がかりにして想像されるものであるにすぎない。
 しかしながら、それは、たしかにあったはずのものであり、民衆的正義感の心のふるさとのようなものなのである。それは偉大なる原典といったものをもたず、数多くの物語の中をつかまえどころのない曖昧な存在としてただよっているだけなので、密輸入された武士道の私生児のようなものにされてしまったり、ファシズムに飼い慣らされたりもする。しかし、明治はじめに、北村透谷は、「徳川時代の平民的理想」という論文で、徳川時代に民衆がつくったモラルで見るべきものは任侠思想くらいのものであると書いている。そう言われても、およそ任侠とか義理人情とかいうものとは縁もゆかりもないはずの暴力団が任侠思想の継承者という看板をかけているため、誰もそんなことを信じないわけだが、だとすれば、かつて北村透谷が明言したところの「平民的理想」が、今日、その担い手を失って宙をさまよっているというところにこそ、日本の民衆思想史の重要な問題点があるのだと思う。ただ、全共闘運動だけは、現在の日本にも侠気というものが確実に存在することをわれわれに示したし、それはマルクス主義よりも原始任侠道に近いものを感じさせる思想的事件だと思う。自分を上流階級であると想定する三島由紀夫は、全共闘運動の中に、マルクス主義以上に、むしろ原始任侠道の復活を見ておびえたのではないか。そしてこれを、武士道によって超克しようとしたのではないか。私にはそんな風に感じられる。その意味では、三島由紀夫は、昭和元禄における水野十郎左右衛門かもしれない。
 義理人情の原理は忠義の原理をこえるものにきたえあげられなければならない(佐藤忠男長谷川伸論ー義理人情とは何か」岩波現代文庫、2004年、p29-30)。

正確には、キリスト教徒(クェーカー派)であった北村透谷は、江戸時代に平民が生んだ思想でキリスト教社会における騎士道に匹敵するものは、「侠」(「女侠」を含む)と「粋」くらいである、と述べている(北村1892)。私が佐藤忠男の議論に付け加えるならば、「弱きを助け、強きを挫く」侠気という倫理=美学は、佐藤忠男(および佐藤の世代の男性論客)の無自覚な「男性中心主義」をこえるものにきたえあげられなくてはならない。