「幡随院長兵衛もの」はなぜ復活しなかったか

 大正時代には、講談や歌舞伎などの大衆文化を通じて「国民の一般常識」にまでなっていた、江戸時代初期の伝説の侠客を扱った「幡随院長兵衛」ものがなぜ第二次世界大戦後復活しなかったのかを考えてみました。それは、戦後は「官憲の横暴」がなくなったからではないでしょうか。
 講談研究の専門家に訊いても、歌舞伎研究の専門家に訊いても、「幡随院長兵衛もの」の研究は、歌舞伎の劇評くらいしか存在しない、ということです。研究者が大衆文芸に興味を持ち始めた頃には、「幡随院長兵衛」ものはもう流行らなくなっていたのでしょう。「水戸黄門」や「遠山の金さん」の変わらぬ大衆人気を見ると、日本人の「お上」意識に大きな変化があったとは思えません。にもかかわらず「幡随院長兵衛もの」が消えたのは、江戸の町人の味方「町奴」に敵対していた「白柄組」のような「旗本奴」、「お上」の威光を傘に着て、庶民に横暴をはたらく集団が消滅したからでしょう。逆に言えば、江戸後期から明治時代にかけての庶民には、「官憲」はまだ時として「旗本奴」のように見えて、「旗本奴」が長兵衛にやっつけられるのを見て、庶民は溜飲を下げていたのではないでしょうか。それに対して、「悪代官」や越後屋のような悪徳「役人」(政治家・官僚)・悪徳「商人」(大企業)のイメージは、今でも庶民に保持されているので、「水戸黄門」や「遠山の金さん」は依然として人気があるのでしょう。