「鉄の檻」の志願囚人

 1990年代以降の、日本の若者の「自分探し」ブームは、結局は「新自由主義の罠」だったのではないでしょうか?M・ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の末尾で警告した、近代産業資本主義の「鉄の檻」を生きる「精神のこびと」、「精神なき専門人、心情なき享楽人」を作り上げるための精巧なメカニズムだったのではないでしょうか?「精神世界」周辺で自足している若者たちを、資本主義の「鉄の檻」を生きる「志願囚人」(安部公房)として捉えることも可能だと思います。安部公房は、「志願囚人」という概念を以下のように説明しています。

 「志願囚人」という発想をした理由は、いまわれわれが置かれている状況が、要するにそとから拘束された囚人ではなくても、みずから志願した囚人に過ぎないんじゃないかという問題提起をしたかった
(「錨なき方舟の時代」『死に急ぐ鯨たち』より)

 よりよい適応、よりよい健康、より高い生産性
 ブタ
 檻の中のブタ
 抗生物質づけのブタ
 (レディオヘッド「フィッター、ハピアー」『OK コンピューター』より)