天理教とポジティヴ・シンキング

天理教の「教団内教団」の趣のある愛町分教会では、天理教の信仰と後世のポジティヴ・シンキングが習合しているようです。

 

ところで、神様から与えられた、この神秘的な『潜在意識』は、お道のお助けに於いても活用し得る。

無限大の創造的パワーを秘めた『潜在意識』を作動させるには、強固なる『信念』を培養し、弛まざる『努力』を続けねばならぬ。成功哲学流に言えば、用木が、「自分は匂いがけが下手だ」又「自分のお授けは効かない」と想念すれば、本当にそうなってしまう。何事も、消極的に諦めたらおしまいだ。

弱腰にならず、敢えて積極的可能思考に切り替えていく。用木の意識の変革だ。潜在意識を変えれば、現象界も変わる。つまり、「自分は素晴らしい用木だ」、「自分はお助けの名手だ」「病人は、必ず必ず、親神様のご守護を頂ける」と、繰り返し想念し、イメージして潜在意識に叩き込む事だ。

お助け人は、「絶対に、助かって頂ける。神様にお働き頂ける。自分の祈りは必ず叶えられる。」と信じ切って、病人の助かった姿を絶えず鮮明にイメージする。病人も同様-「絶対に、助けて頂ける。自分は助かる。病気は治る。」と信じ切り、自分の助かった姿をありありと脳裏に描きながら、四六時中本当に治ると思い続ける。両者不抜の信念を持って、終始神様のご守護を疑わず、途中で諦めず、絶対に助かる事を確信しながら、不断の努力を続けていく。然すれば、後は潜在意識が奇蹟を行なってくれるのである。

(お道の信仰者として、基本的な、心の立て替え又尽くし運び等の大切な事は述べる迄もない。)ちなみに、本教にも一言がある。

『言えば言った通り、思えば思った通りの守護、心通りの守護』という神

(『赫ける神人』より)

天理教の男性カリスマの薄化粧をめぐって

愛知学院大学人間文化研究所所報46号原稿(2020年9月刊行予定)

 

<題名>「天理教の男性カリスマの薄化粧をめぐって」

<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)

 

 この小論では、天理教史上有数の大カリスマであった男性、関根豊松(1881-1969)が薄化粧していたことの意味を考えてみたい。

 関根豊松は、天理教愛町分教会創始者である。天理教では、傘下に50以上の教会をもち、本部に希望した分教会だけが大教会と認められる。愛町分教会は規模からすれば他の多くの大教会をはるかにしのぐのであるが、関根豊松が大教会となることを希望しなかったので、名称は分教会である。その規模はとても大きく、天理教の教団内の独立教団と言ってもいいくらいである。関根豊松には分派の意志は全くなかったが、もし分派していれば、天理教有数の大分派教団になっていただろう。

 関根豊松は、病気なおしの霊能をもっていたとされている。記録は、関根の病気なおしの能力について、次のように伝えている。

 

天理教の救済法には大きく分けて二通りある。ひとつは中山みきの教理を順々と説き、相手が納得することによって助かるというもの。もう一つは相手がその場では半信半疑か、あるいはすぐに理解できなくても霊能で有無をいわさず治してしまうというものである。天理教の主流は前者の方法がほとんどである。いや、現場ではそれがすべてと言っても過言ではない。前者は本人に霊能がなくても相手が話を納得すればそれだけで多少なりとも霊験があらわれるとされているから、基本的には誰でもできるわけであるが、それだけにそれなりの徳と真実がなければ効果は薄いともいわれる。

一方、後者は誰にでもできると言うものではなく、中山みきの霊能を自分のものとして体得していなければどうにもならない。関根豊松はそんな極めて稀な後者の代表例であった(豊嶋泰國『天理の霊能者』インフォメーション出版局、1999年、p180)。


 前者と後者は別種のものではなく、後者は前者の極端な形であろう。近代医学でいうプラシーボ(偽薬)効果は、治療者のカリスマ性に左右される。関根豊松は、それだけの大カリスマだったということだろう。では、関根豊松のカリスマ性は、どのようにして確立されたのだろうか。関根豊松は、その点について以下のように説明していた。

 

関根は生前、教祖の雛型の道を踏めば誰でも自分と同じように奇跡的な徳の力をいただくことができると教え諭していた。

「教祖の雛型を踏まずに、教祖同様の不思議な奇跡をみせていただく道理はありますまい。この教会は皆さんが助かってくださるので、人々は不思議と申されますが、不思議とおっしゃる方が不思議ですよ。私たちは教祖の道を継ぐ弟子です。弟子は、教祖のなさったことを真似たらよいのです。教祖の雛型はわかるものではなく、踏むべきものです。私は教祖の雛型を踏ませていただこうと、日夜努力しました。その結果がいつの間にか今日の姿になっただけですよ」(『天理の霊能者』、p193)


 中山みきの教祖「雛型の道」を日夜努力して「踏む」ことによって「徳の力」が身につく、と説明していたのである。その関根豊松は、薄化粧をしていた。記録には、次のようにある。

 

色白で華奢な体つきのせいか、普段の物腰は女性的で、薄化粧することもしばしばであった。髪は少々薄かったが、頭にはヘアー・トニックをつけ、櫛で髪をきちんと溶かし、洗顔の後、化粧水を肌にぬり、眉毛をペンシルで書くのである。着物を着る時も自分で下着からきちんと着こなした。若い頃は日舞を習っていたこともあり、踊りが大好きで、興が乗ると、皆の前で踊りを披露することもあった。「坂東豊」という坂東流の名前も持っていた。このように関根には女性的な要素が多分にあった点にも注目したい(『天理の霊能者』、p182)。

 

 豊嶋泰國は、関根豊松のこのような「女性的」(と豊嶋泰國が評する)側面について、近代日本の新宗教における「両性具有」の伝統と関連付けて説明している。中山みきの怪力、大本教祖・出口王仁三郎の女装、天照皇大神宮教の教祖・北村さよの男装といった系譜に連なると見るのである。しかし、私は賛成しない。ジェンダーは分類の原理であり、一人の人間が二つのジェンダーを同時に生きることは定義上ありえない。「両性具有」の人間は存在しない。関根豊松は、あくまで「薄化粧している男性」だったのだと思う。

 21世紀初頭の現代日本でこそ、若い世代を中心に、薄化粧している男性は珍しくない。スキンケアしている男性も、眉毛の手入れをしている男性も、ざらにいる。江戸時代にも、少なくとも江戸では、薄化粧している男性は珍しくなかった。しかし、関根豊松が活躍した20世紀前半には、薄化粧している男性は珍しかっただろう。では、関根豊松はなぜ薄化粧していたのだろうか。それは、教祖「雛型の道」を「踏む」ための努力の一環だったのだろう。天理教教祖・中山みき(1798-1887)も、少なくとも老境に達して宗教者として「道」を説くようになってからは、いつもきちんとした服装をしていた。記録には、次のようにある。

 

教祖(おやさま)は、中肉中背で、やや上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色も良く、鼻筋が通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差であられた。

お髪は、歳を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真っ白であられたが、いつもきちんと梳って茶筅に結うておられ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた(『稿本 天理教教祖伝』天理教道友社、1976年、pp.165-166)。

 

 このようにきちんとした装いをしていた女性教祖の「雛型の道」を「踏む」ことに徹底すると、男性でも薄化粧くらいはしなければならないのだろう。「装い」には、「他者の視線を飾る行為」としての側面がある。他者に不快感を与えない装いは、宗教者にとっても重要なのであろう。

 21世紀に入り、女性の地位は昔よりは向上し、社会は男女平等に近づいた。それにつれて、男性も以前より身だしなみに気を配るようになった。「草食系男子」とはもともと若い男性に対する褒め言葉として考案された言葉であったが、今では「覇気がない」という若者バッシングの言葉として用いられることが多くなっている。草食系とも称される現代日本の若い男性は、身だしなみには年輩者よりも気を配る。男性向け美容品の業界は、どんどん成長している。年配の男性の中には、若い男性のこういう傾向を「女々しい」として快く思わない人もいるようである。しかし、関根豊松の例を見れば、身だしなみに気を配る若い男性は、年配の男性よりも教祖の「雛型の道」に近いのではないだろうか。

 現代の天理教も、本部に全国の男性の大教会長を集めて、「男の身だしなみ」講習会を行えば、「おたすけ」の成功率が上がるのではあるまいか。

 

<参考文献>

『稿本 天理教教祖伝』天理教道友社、1976年

豊嶋泰國『天理の霊能者』インフォメーション出版局、1999年

 

 

三島事件と「美味しんぼ」民族統一戦線(大学の講義ノートから)

<補足>三島事件と「美味しんぼ」民族統一戦線

1.三島由紀夫vs.東大全共闘/「美と共同体」論争

全共闘運動/ベトナム戦争/反米・反安保改正運動/全国の大学に学生運動の嵐/新左翼運動

三島由紀夫全共闘運動/極右vs.極左/しかし「暴力肯定」という一点では一致

・「美と共同体」論争/日本人の美意識にとって天皇制は必要か否か?

・マンガ=アニメ「美味しんぼ」/1990年代に大ブーム/原作者は東大全共闘出身者/「美と共同体」論争の延長線上/「三島、日本人は天皇制なしでも団結できるんだぞ!」

・貴い生まれのサラリーマン(折口=三島「貴種流離譚」/三島が日本の文学の必須要素として強調していた/軽薄な欧米崇拝・醜悪な成金趣味・日本の伝統文化の破壊をもくろむ(?)「米国帝国主義」に制裁/大衆消費社会に「究極のメニュー」という秩序を確立

三島由紀夫「美としての天皇制」/和歌を詠む象徴天皇/「日本語」による民族の団結

・東大全共闘美味しんぼ」/海原雄山=左翼版「美しい天皇」/共通の「味覚」による民族の団結

・毎回「国だ、文化だ、伝統だ」と言いながら、「天皇制」と「自衛隊」には触れない

・しかし、日本人なら「共通の」味覚をもつのか?/「味覚」も変化するのではないか?

・「美味しんぼ」民族統一戦線/いまはもうブームは去った/「味覚」よりも「日本語」のほうが、民族的アイデンティティの基盤として強力/三島由紀夫の「美としての天皇制」は、依然として日本人にとって宿題となっていると思う

 

2.三島由紀夫の男性中心主義

・三島自身は、ゲイだった(公言していた)/強力なマチズモ(男らしさ偏重)

・「男であれ!」/三島事件の強力な男性中心主義/女性自衛官など、視野にもいれていない

男女共同参画社会となった現代では、三島のマチズモは通用しないだろう

 

吉崎観音のマンガ=アニメ「ケロロ軍曹」/「地球侵略者」という「異端」を笑いのめす →間接的に、「地球上の軍人」という「正統」を笑いのめしている/したたかな平和主義

・「ケロロ軍曹」(海外でもヒットしている)を見て育った子どもたちは、大人になっても「軍人はかっこいい」とは思わないだろう/三島由紀夫の議論の基盤を揺さぶっている

 

 

三島由紀夫論(大学の講義ノートから)

*1980年代以降、グローバル化の加速度的進展の中で、「民族」の心の拠り所を求める穏健な動きが世界的にある/その一部が、急進的政治運動に転化する/それを西欧のマスメディアが差別的なニュアンスを込めて「ファンダメンタリズム」と呼んでいる

 

グローバル化の中のアンデンティティ戦略/北東アジアの日中韓では、宗教の政治への従属が近世という早い時期に起きた/「宗教」で「民族」が団結するという方向にはいかない/中韓の右翼=「儒教精神の見直し」/日本→「天皇制」で団結するという動き/三島由紀夫「美としての天皇制」

 

三島由紀夫事件(1970年)/ノーベル賞の有力候補だった著名な作家が、私兵とともに自衛隊の市ヶ谷駐屯地に突入、憲法9条改正のクーデターを呼びかけて(予定通り)失敗、切腹自殺(ネットに三島の生首が出ている)//劇作家でもあった三島がシナリオを書いた自作自演の自殺劇/三島の演説https://www.youtube.com/watch?v=xG-bZw2rF9o/三島が播いた檄文は、配布プリントにしてある

 

*三島の行動はどう見ても「過激で極端」であったが、その主張は、50年後のいま冷静に見れば、賛否は別として、無理なことではなかった/当時は理解されなかった

 

憲法1条の象徴天皇制事項はそのままで、天皇制を日本の伝統美の象徴にする/文化行事、特に正月の「歌会始め」を重視する/日本人は、豊かな生活のためなら、伝統的生活様式はすべて捨てるだろう/しかし、「日本語」だけは捨てられない/57577のリズムも捨てられない/日本語に対する思いを、天皇制につなぎとめる/若者がハンバーガーを食べながら、スマホで「歌会始め」に応募するような日本を考えていた/グローバル化のなかで、「日本語」による国民の団結

 

交戦権の復活・軍備増強・日本の核武装のような無理を主張していたのではない/憲法9条を改正して、自衛隊を国軍とする/自衛隊2分割案→国土防衛軍(従来通り専守防衛)と国連予備軍(国連安保理の決議があった場合のみ、国連の指揮下で海外派兵する/「象徴天皇」に、自衛隊に旗を渡す儀礼(現在は防衛大臣)をしていただく/「日本文化を守る」自衛隊という形にする

 

*熊田個人の考え

=三島は、後世に宿題を突きつけて自殺した//50年経っても、「天皇制の存在理由は何か」「自衛隊はどうするのか」日本人はまだ決めかねている/三島プランだと、自衛隊(国連予備軍)はクウェートには派兵できたが、アメリカの単独行動であるイラク戦争には派兵できなかった/現実の日本がやったことは、逆だった

→私は、現在の「開かれた」象徴天皇制はうまくいっており、そのままでいいと思う。また、50年経って自衛隊は完全に国民の支持を得ている/しかし、自衛隊に「米軍の2軍」という側面があることは否定できない/「アメリカの子分」から「国連中心の独立国」になるという考え方はあると思う/決めるのはこれからの日本人である

 

グローバル化の加速度的進展のなかで、「和」や「日本語」で団結しようという穏健な動きが広範にある/ex.「和風」ブームや「声に出して読む」日本語のブーム/それを「過激な」政治運動に転化させようとしたのが三島由紀夫であった/日本の「ファンダメンタリズム」といえよう

 

コロナで中止された国際宗教史学会の発表要旨

<Abstract>

<Title> The Founder of Tenrikyo and Violence

 

In the studies of Japanese new religions, researchers avoided treating the complex relationship between religion and violence. The Founder of Tenrikyo, Nakayama Miki (1798-1887), in her old age, often had race of strength with male believers, and she defeated them easily. For this, she claimed that the parent god bestowed her double strength. By using positivistic historical approach, I argue that the founder had to do this in order to try to stop violence of believers and to prevent her religious movement, which aimed to launch salvation for socially weak and poor its prime ideology, turning to another real riots by the poor. It also argues that in the issue of gender violence, the founder did not advocate that wives should respect and obey husbands. This study will contribute to the cross-cultural study of the complex relationship between religion and violence.

高橋留美子の漫画における男性像

愛知学院大学文学部紀要49号原稿(2020年9月刊行予定)

 

<著者>熊田一雄(宗教文化学科)

<題名>高橋留美子の漫画における男性像

 

<要旨>

 この論文の目的は、高橋留美子の漫画と高橋留美子に対するインタビュー記事を資料として、高橋留美子の漫画における男性像を男性性研究の観点から分析することにある。高橋留美子の漫画は男女の対等な関係にこだわる。この論文では、まず高橋がラヴ・コメディ漫画において、作品設定においてしばしば男性に巧妙に「ハンディ」を設け、男女平等の恋愛を描いていることを見る。次に、高橋が代表作のひとつ『うる星やつら』の執筆において、自分に「顔のいい男性は、ボケキャラでないといけない」というルールを設定していることを、学校に「男性の権力者」を作らないための工夫として分析する。さらに、高橋の漫画における「残念なダメ系男性」は、高橋が現実の日本人男性にはあまりない「優しさ」を男性に求めたものである、と論じる。高橋のラヴ・コメディ漫画は、「男女間の権力関係」に敏感であるからこそ、「男女平等」の恋愛関係を説得的に描くことに成功し、世界的に大変な人気を博しているのである。

 

<キーワード>

高橋留美子/男性性研究/ハンディ/美形のボケキャラ/ダメ系のやさしさ

 

 

<本論>

ヒーロー「こわかったらここにいなさい。/私と一緒に・・・」

ヒロイン「え・・・?」(ドキン)

(そ・・・それはつまり・・・/ともに永遠(とわ)にみたいな・・・?)(ドキドキドキ)

ヒーロー「おまえは・・・」

    「体が強いのはもちろんだが心根も良い。/素直で勇気がある。」

(ええ・・・!?/めっちゃほめられている。)(ドキドキ)

ヒーロー「おまえなら、私の下で、/充分に働ける。」

(んん!?)

ヒーロー「それに向こうの世界におまえがいなければ、/いずれ猫鬼(怪物-熊田注)は再び、大正(こちら)に戻ってくる。」

ヒーロー「それまでに私の下働きとして猫鬼と戦う術を覚えるといい。」

ヒロイン「いや/なんで私があんたの手下にならなきゃいけないの。」(ヒーローをひっぱたく―熊田注)

「何かちょうだい。/お守りとか武器とか。」(高橋留美子『MAO』3巻、pp.69-70)(図1)

 

 1. はじめに

    言うまでもなく、高橋留美子現代日本を代表する女性漫画家のひとりである。日本だけでなく、世界的にも評価が高い。2018年には米国アイズナー賞で殿堂入りし、2019年には仏アングレーム国際漫画祭グランプリを受賞している。評価が高いだけでなく、高橋の作品はとてもよく売れ、すでに全世界で合計2億冊以上売れている(2020年時点)(『高橋留美子本』による)。

 このように漫画界の巨人であるにもかかわらず、高橋留美子論は決して多くは出版されていない。全体像を論じるには、あまりにもスケールの大きな存在である。まだバリバリの現役であり、今後もベストセラー作品を書き続けることが予想される。「子ども向け」の通俗漫画家という偏見があり、真剣に論じる対象だとはあまり思われていない、といった理由によるのだろう。

 本稿も、「高橋漫画の全貌を論じる」といった無謀な企てを試みるものではない。本稿は、高橋の大ヒットしたラヴ・コメディ漫画や、恋愛要素を含む代表作に見られる恋愛のあり方をジェンダー論の観点から考察し、「男女の対等な関係」にこだわる高橋が、しばしば男性に「ハンディ」を課するという作品設定を用い、美形の男性キャラはしばしばボケキャラにしていることを分析し、「残念なダメ系」の男性主人公に「優しさ」を付与していることを分析することにある。

 日本の漫画史において、高橋は日本の少年マンガに、少女漫画的作品傾向の「ラブコメ」を導入した漫画家である。しかし、高橋の「ラブコメ」は1980年前後に少年漫画を席巻した「ラブコメ」とは、ひと味違うものであった。その点を、「高橋留美子と漫画・アニメ史の転換期」という文章で、夏目房之助は次のように論じている。

 

 「うる星」が新鮮だったのは、善悪と戦いの勝利が問題だった少年漫画の「王道」に対し、ひたすらダメでモラル的にもいい加減な少年がむちゃくちゃ魅力的な美少女に愛されるという、一見ご都合主義的な「ラブコメ」の快楽によるところが大きい。これは少女マンガの「目立たない私でも、どこかに愛してくれる美青年がいる」という夢想の男子版のように見える。事実、80年前後に少年漫画を席巻する「ラブコメ」の多くは、そうした安易さに満ちていた。

 だが、高橋という作家の面白さは、じつはそれらのステレオタイプをパロディとしてすべて裏返していく裏切りの爽快感にあった。彼女の描くおじさん主人公の、ちょっと切なく見せて、じつは相当に意地の悪い視線の短編が示すように、その作品世界はいつも両義性を持っている。パロディは、この両義的視線の表現である(『高橋留美子本』、p15)。

 

 私見では、男女の恋愛に関して、高橋は「夢見る」には、ニヒリストといってもいいほどのリアリストである。冒頭のエピグラフにように「男女の対等な関係」を求めるという意味では、「隠れフェミニスト」と言ってもいいかもしれない。

 高橋が「隠れフェミニスト」であることがよく現れている作品のひとつが、初期の短編「ザ・超女(スーパーギャル)」(1980=1995)である。作品からネームを引用する。

 

 「大金持ちと結婚すれば借金の肩代わりしてもらえるのよ!!/アルバイト人生さようなら!!」(やたっ/やたっ)

 「打算的じゃね―・・・」

 (中略)

 「すぐに助けてあげる!!/あたしの王子様!!」(\\チュッ\)

 「あたしをあげる!!/みんなあげる!!/だからお金をちょうだい!!」

 「ん?/なんかいった?」

 (女性主人公の仕事のパートナー―熊田注)「話しかけるな!!/きみにはもう二度とまともな話題をもちかけまいと思っているとこだ!!」(高橋1980=1995、p72,74)

 

 ここでは、「金目当ての打算的な結婚」を希望する若い女性が、徹底した軽蔑の対象となっている。高橋が、「経済のための結婚」を退けて「純粋な恋愛」を夢見ていることがよくわかる短編である。

 高橋は男女関係の必然性に強くこだわる。高橋自身、対談において次のように説明している。

 

 高橋 ただ、基本は男女交際ですから。とにかく男と女のという要素だけは絶対外せないと思っているんです。

 平井 だって、人間というのは男と女しかいないじゃないですか。

 高橋 漫画にも小説にもそれがないと、絶対に面白いものにはならないという確信がありますからね。

 平井 それは確かです。

 高橋 何をかくにしてもそれが基本というのは当然なんですけれども、あとはいかにそれにおどろおどろといろいろな要素を入れてやっていくかですね。だから、どんな異常な存在であろうが、能力があろうが、それを全部取っ払っていったら、最後に残るのは男であるのか女であるのかというようなものだと思うんですよ。

 平井 全部突き詰めていって?

 高橋 突き詰めた場合、そうなるということで、だから、男女交際という基本ラインは必ず出てくるんだけれども、逆にそれをどうやって書いていくのかという部分で、それがどういう男なのか、どういう女なのか、そしてどういう異常設定なのかということが出てくるわけです。後は、何とも口では言えないんですが・・・・・・(高橋・平井1984、pp.78-79)

 

 そして、作品の中核をなす男女関係を「対等なもの」として描くところも、初期の作品『ダストパート!!』から変わらない(図2)(高橋1979=1995)。

 

 

2.男性主人公とハンディ

 イギリス文学の古典『ジェーン・エア』(1847)について、ヒロインである孤児院出身のジェーン・エアは、恋人のロチェスター伯爵が火災で家屋敷(と元妻)を失い失明する一方で、自分の方は「叔父の遺産」を相続した時に、始めて伯爵のプロポーズを受け入れるが、そこに女性作者シャルロット・ブロンテ(1816-1855)の男女間の権力関係についての近代的な醒めた認識がある、と聞いたことがある。伯爵とただの孤児のままでは、結婚しても、男女関係が「支配―従属関係」になってしまう危険性があるのである。「近代」社会では、男性に何らかのハンディを科さなければ、男女間の「対等な対」を説得的に描くことができなかったのではないか。
 1980年代に入る頃から、リアリストの高橋は、ラヴ・コメディ漫画において男性主人公には巧妙にハンディを科した作品設定を用いている。『うる星やつら』(1978-1987)では、鬼娘ラムには「飛行と電撃の能力」を与えた。『めぞん一刻』(1980-1987)では、管理人の響子さんには「アパート一棟の所有権」を与えていた。その後、『らんま1/2』(1987-1996)では、J・バトラーが描いたような、ジェンダーアイデンティティは可変的である」というポストモダン的状況を書いた後、高橋は、『犬夜叉』(1996-2009)においては、再びハンディ付きの「男女の対等な」恋愛を描いた。
 『犬夜叉』のヒロイン・女子中学生の「かごめ」は、いつもセーラー服を着ていて、半妖(妖怪と人間のハーフ)の「完全無欠な」クールでかっこいいヒーロー・に犬夜叉に守ってもらうだけではなく、犬夜叉とともに悪の勢力と戦う。かごめは、もはや超能力も不動産ももっていない。ただし、半妖(妖怪と人間のハーフ)のヒーロー・犬夜叉の頭にはわっかがはめられており、かごめが「おすわり」(英訳では“Sit!”)と「玉鎮めの言霊」をかけると、地面にたたきつけられて腰砕け状態になってしまう。恋愛関係において、男性には、ハンディを科さなければ男女の対等な関係を説得的には描けない。犬夜叉の頭にはめられたわっかのような製品を実用化すれば、購入して恋人や配偶者の男性に身につけさせたいという女性は、日本にごまんといるのではないだろうか。
 次の大ヒット作『境界のRINNNE』(2009年-2018年)では、ヒロインの女子高生・真宮桜は、中流階級の「普通」の家庭の子女であり、鬼娘ラムのような超能力も、音無響子のような不動産も、かごめのような魔法の力ももっていない。しかし、ヒーローの六道りんね(死神と人間のハーフ)は高校のクラブ棟に住み込んで内職をしながら高校に通うほど「貧乏」と設定されている。「富の有無」という形を用いて、高橋は依然としてヒーローに巧妙にハンディを科し続けている。
 『らんま1/2』における男性主人公・らんまは、水を浴びると女性になる、という「ハンディ」を背負っていると見ることもできる。『らんま1/2』における男性主人公・らんまと女性主人公・あかねの恋愛については、インタビューで高橋は次のように答えている。

 

―― 『うる星やつら』は追いかけっこ、『めぞん一刻』は片思いとすれ違いで物語を引っ張っていかれた訳ですが、ラムも響子さんも、男たちよりある意味では「上」にいる女性ですよね。前者はいくつかの特殊能力や異星の科学アイテムを持っていて、後者は経験豊富な年上の女性のわけで。それに比べてあかねは、好きな男の子と対等な感じがいいな、と思いました。

高橋 まさにおっしゃるとおりで、そういう意味では今回の漫画は、主役の男女の関係においてもバトルを描きたかったんです。ラムとあたるみたいな追いかけっこじゃなくて、お互い対等な立場でガンガンぶつかっていくという(『高橋留美子読本』2019、p55)。

 

 こうした視点で高橋の漫画を見るとき、興味深いのは現在(2020年2月時点)連載中の長編『MAO』である。まだ単行本は第3巻までしか刊行されていないので今後どう展開していくのかわからないが、少なくとも現時点では、男性主人公には「ハンディ」が課されていない。日本社会における女性差別と男尊女卑は依然として根強いのだが、昔に比べれば女性の社会的地位が向上し、「男女の対等な関係」を描くために、1980年代の『うる星やつら』から2010年代の『境界のRINNE』の書かれた時代に比べれば、男性主人公に露骨なハンディを科す必要が感じられなくなってきたのかもしれない。

 

 

3.イケメンのボケキャラ

高橋は、最近のロングインタビューの中で、自作における「イケメン」の男性キャラについて、次のような興味深い発言をしている。

 

―竜之介は性を超越したキャラで、これはのちに高橋先生が好んで描かれるキャラの型のひとつだと思います。

高橋 「うる星」の場合、「顔がいい男性キャラは絶対にボケのキャラじゃないといけない」というルールを作っていたんです。面堂終太郎がその代表ですけど、そればかりだとだんだんストレスも溜まってきて。たまにはかっこいい男性キャラを普通にかっこよく描きたい。でも、せっかく作ったルールを破るのも嫌だしなと思っていたら、あるとき、女のキャラならそれが許されるんじゃないか、と閃いたんですよ。「一見かっこいい男の子だけど本当は女の子」という設定なら、それ自体がボケになりますしね(『高橋留美子本』、pp.38-39)。

 

(前略)では、高橋自身が(『うる星やつら』の中で―熊田注)最も好きなキャラとは?

「竜之介ですね」

浜茶屋「海が好き」の跡継ぎ、藤波竜之介。見た目は美男子だが実は女の子で、口癖は「おれは女だ!」。彼女を“理想の男性”と語る女子読者多数。

「連載中盤に初登場しますが、ちょうど行き詰まっていて。彼女が新しいエネルギーを持ってきてくれた。ジェンダーが曖昧で、それも描いていて楽しかったですね。『うる星~』では男性キャラは絶対ボケなきゃいけないんですけど、竜之介はそれに縛られない」(『ダ・ヴィンチ』、p35)

 

 

 高橋留美子が『うる星やつら』を描くにあたって自分に科した、「顔がいい男性キャラは絶対にボケのキャラじゃないといけない」というルール、とは、1.学校社会に昔の「王道」少女マンガが描いていたようなパーフェクトなヒーローを持ち込んで、少年誌の男性読者に劣等感を抱かせない、2.学校内の男子と女子の関係に「美形のパーフェクトなヒーローの優位」という力関係を持ち込まない、ということのための工夫とも考えられる。異性の目を意識しがちな思春期の生徒にとって、「スクール・カースト」は厳然と存在し、美形であることは、権力者たる条件になりうる。

 『うる星やつら』に登場する面堂終太郎は、イケメンでかつ財閥の御曹司であるが、暗所恐怖症で、頭から釣り鐘を被せられると、「暗いよー。狭いよー。怖いよー。」と泣きわめくという決定的な弱点がある。もちろん、(おそらくは)ヘテロの女性として、高橋も「たまにはかっこいい男性キャラを普通にかっこよく描きたい」のである。しかしリアリストとして、ダイレクトにそれをすると、少年誌の一般男子の読者の支持を失うし、男女関係に「支配―従属」関係を持ち込んでしまうことになるのがよくわかっているのだと思う。

 

 

4.ダメ系のやさしさ

 『うる星やつら』や『めぞん一刻』以来、高橋は残念でダメ系の男性を主人公にすることが多い。その点を、2013年のインタビューで高橋は次のように説明している。

 

残念なダメ系の男性は、あたる(『うる星やつら』の男性主人公―熊田注)や五代(『めぞん一刻』の男性主人公)から連綿と続く高橋マンガの特徴的系譜でもある。このキャラ造型は、高橋の素晴らしい発明だ。

「そうですね。でもただダメなわけじゃなくて、彼らなりの価値観とか信念がある。たとえば、五代は決して人を騙したり陥れたりしない。私の中に物差しがあって、それに従って彼らの人柄を描いているんだと思うんです」

 だからこそ、あたるもおじさんもダメだけど愛おしい。彼らの心には限りない優しさがある。

「私の希望のあらわれかな。彼らの優しさこそ本当のSFかもしれない(笑)」( 『ダ・ヴィンチ』2013年12月号、p39)

 

 『うる星やつら』の主人公あたるの「優しさ」については、高橋は次のように答えている。

 

―― あたるは、女好きで軽薄な男のイメージも強いんですけど、今回取材するにあたり再読してみたら、要所要所で繰り返し、女の子に対する優しさがさりげなく描かれているんですよね。その、彼のさりげない優しさにちょっと胸を打たれました。「うる星」といえば、つい可愛いヒロインたちに目がいきがちですけど、そもそも主人公は彼ですからね。もっとあたるのピュアな部分に注目していただきたい、とこの場を借りて言っておきましょう(笑)。

高橋 ありがとうございます(笑)(同上、pp.37-38)。

 

 『めぞん一刻』の主人公・五代の「限りない優しさ」については、作品ラスト近くの日本漫画史に残る名シーンを想起されたい(図3)

 高橋以前の少年漫画では、男性主人公は「人並みはずれて優れている」のが普通であった。それに対して、高橋はどこにでもいるような残念でダメ系の主人公を描いて、その代わり彼らに「限りない優しさ」を与えた。「私の希望のあらわれかな。彼らの優しさこそ本当のSFかもしれない(笑)」という発言に、高橋のニヒリズムすれすれのリアリズムを見てとることができる。高橋は、男性のそんな「優しさ」は現実というよりもSF(虚構)であり、あくまで(おそらく)ヘテロ女性である自分の男性に対する「希望」にすぎない、ということがよくわかっているのであろう。

 

 

5.おわりに―少年少女への誘惑―

以上をまとめると、少年漫画に恋愛という少女漫画的要素を持ち込んで「ラブコメ」という新ジャンルを発明したとされている高橋は、一見「王道」少女漫画の少年版を描いているように見えて、実のところは、醒めたリアリストの女性として、少年誌の読者を「男女の対等な関係」へと誘惑している、とも解釈できる。ダメでもいい、イケメンでなくてもいい。『めぞん一刻』の男性主人公・五代のライバルの名前は三鷹で、おそらく結婚条件における「三高」をパロディにしたネーミングである。ただ、「ハンディ」を背負ってでも、女性に威張ることなく、「限りない優しさ」をもち、女性と「対等な関係」に入ってほしい、という誘惑である。「男女関係において女性と対等であれ」というこの誘惑こそが、「ルーミック・ワールド」を1980年代から50年近く、いつも少年少女を惹きつけてきた大きな要因のひとつではないだろうか(1)。

 

 

<注>

(1)本稿では論じなかったが、減量下手のボクサーとカトリックのシスターの恋愛を描いた、高橋の漫画『1ポンドの福音』は、「スポ根もの」と「ラヴ・コメディ」を融合させた(「女のためにボクシングする」)だけではない。それだけなら、あだち充の野球漫画『タッチ』と同じである(『ユリイカ-少年サンデーの時代-』2014を参照のこと)。男性主人公をボクサーとしただけではなく、女性主人公の側もカトリックのシスターと設定したことによって、「ひとつのことに打ち込むために、異性は邪魔である」という「宮本武蔵イデオロギー」に挑戦して、成功している(図4)。日本社会に根強く残る「宮本武蔵イデオロギー」については、『「宮本武蔵」は生きつづけるか』を参照されたい(水野・桜井・長谷川2001)。

 

 

 

<参考文献>

高橋留美子「ダストパート!!」『高橋留美子傑作短編集1』小学館、1995年(初出1979年)

「ザ・超女(スーパーギャル)」『高橋留美子傑作短編集2』小学館、1995年(初出1980年)           

うる星やつら』全18巻完結セット、小学館、2011年(初出1978年~1987年)

     『めぞん一刻』新装版全15巻完結セット、小学館、2007年(初出1980年~1987年)

     『らんま1/2(1)~(38)』小学館、1988年~1996年(初出1987年~1996年)

1ポンドの福音(1)~(4)』小学館、1989年~2007年(初出1987年~2007年)

犬夜叉』コミック全56巻完結セット、小学館、2009年(初出1996年~2008年)

境界のRINNE』コミック全40巻セット、小学館、2018年(初出2009年~2018年)

『MAO(1)~(3)』続刊中、小学館、2019年~2020年(続刊中)(初出2019      

              年~連載中)

高橋留美子平井和正『語り尽くせ熱愛時代』徳間書店1984

ダ・ヴィンチ-特集・高橋留美子』2013年12月号、KADOKAWA、2013年

ユリイカ週刊少年サンデーの時代-』2014年3月号、青土社、2014年

『漫画家本vol.14-高橋留美子本―』小学館、2019年

水野・桜井・長谷川『「宮本武蔵」は生きつづけるか』文眞堂、2001年

 

 

 

The Foundress of Tenrikyo and Violence

TITLE The Foundress of Tenrikyo and Violence

AUTHOR Kazuo KUMATA (Department of Religious Culture, Faculty of Letters, Aichi Gakuin University, Japan)

 

 

Summary

Tenrikyo is one of the oldest and highly regarded of the Japanese new religions, and is important in Japanese religious history as the prototype of the modern new religions which have more than ten million members.

The Foundress of Tenrikyo, Nakayama Miki (1798-1887), when she got old, often had competition of strength with male believers and by defeating them easily, preached “God the parent has twice the strength”. It is argued that Foundress had to have competition of strength to prevent her religious movement, which aimed to save the socially weak and poor first of all, turning to another real riots of the poor. It is also argued that as for violence based on gender, Foundress did not say wives should respect husbands. I also see the present Tenrikyo and free cafeteria for children.

  

Key Words

Foundress of Tenrikyo/trial of strength/violence of masses/ gender-based violence/ free cafeteria for children

 

 

―Peasants, First

  Scholars and Authorities, Later (Nakayama Miki)

 

 

  1. Childhood of Tenrikyo and Violence

 Ikada writes about relationship of the childhood of Foundress and violence as follows,

 

This year (1998 – Kumata) is the 200th anniversary of the birth of Nakayama Miki, the Foundress of Tenrikyo. The Foundress was born on April 18th, Kansei 10 (1798), the first daughter of Maekawa Hanshichi and his wife Kinu. Maekawa Hanshichi was the village headman of Sanmaiden village, Yamabe-gun, Yamatono-kuni (present-day Sanmaiden-cho, Tenri-shi, Nara-ken).

The Kansei era, when the Foundress was born, saw the so-called Kansei Reforms. Because of the Great Tenmei Famine and subsequent inflation, the finances of the Shogunate and feudal domains were strained, while the growth of commercial capital spurred on peasants’ abandoning of land, and brought about the crisis of the Tokugawa Shogunate. The Shogunate tried to rebuild its system with extreme austerity measures, but the financially weak domains had no hope of fiscal recovery through thrift and taxation alone. On the contrary, severe austerity increased the peoples’ discontent, with peasant uprisings and riots in towns occurring often all over the country.

In Kansei 8, two years before the birth of the Foundress, there was a mass uprising by 30,000 peasants in Ise-ichishi-gun, Tsu. Like the Foundress’s birthplace of Nishisanmaiden, Tsu was ruled by the Todo clan. In Kansei 11, one year after her birth, there was a great riot and peasants, under the command of Hatamoto Yamaguchi Kanbei, attacked and caused damage to the Genbei family of Iwamura village, only 4 kilometers from Sanmaiden. People must have talked about rumors of these peasant uprisings not only in Sanmaiden but also in neighboring villages.

The Foundress’s father Hanshichi was later appointed a low-ranking samurai, permitted a surname and to wear swords. At the same time he was a metsuke village inspector and particularly sensitive to peasant uprisings. It is not difficult to imagine that around the time of the Foundress’s birth the Maekawa family talked about peasant uprisings and town riots (Ikeda 1998. Foreword. Ikeda, Shimazono & Seki (Eds.), p. 5).

 

The fact that “It is not difficult to imagine that around the time of the Foundress’s birth the Maekawa family talked about peasant uprisings and town riots” must inevitably have made Miki in her impressionable growing period think deeply about violence.

 

  1. Tenrikyo and Violence of the Mass

Ikada writes about Tenrikyo and violence as follows,

 

The Foundress of Tenrikyo lived in the age of upheaval from the late Edo to the Meiji Restoration. In particular, during the 1860s and 70s, while the Foundress was preaching most vigorously, Japan was in the midst of terrorism and civil war. Yamato, where the Foundress was, saw the Tenchugumi led by nobleman Nakayama Tadamitsu start the civil war to overthrow the Shogunate in August of the year Bunkyu 3 (1863) by attacking the Edo Magistrate’s office. On May 5th of the subsequent year, Genji 1 (e), a Choshu ronin assassinated the painter Reizei Tametomo, who was suspected of being a Shogunate spy, in Sanmaiden village where the Foundress was born.

This regime change was attempted not only by specific classes – the nobles and samurai – but also, especially in the late Edo, spread to commoners in the form of peasant uprisings and riots in towns. According to the statistics of one researcher, the number of peasant uprisings became “In the three years of the Keio era 44.3 per year, the most in the Edo period”. Riots in cities were frequent occurrences. In reality, local documents tell us that direct petitions and riots happened frequently in the towns of Yamato.

In the midst of such a state of affairs, the Foundress’s first systematic teachings were developed in the form of the jiuta (local song style) Mikagura-uta, of the tsutome ritual. The Foundress taught yokigurashi (“joyous life”), offering a mysterious peace of mind to many people who were suffering from anxiety in an age of violence and rumor. And in Keio 3 (1867), she began to teach the tsutome as a method to pave the way for the desire of people who sought peace. This was the year when the Edo Shogunate was destroyed. In this year there were riots in the village of Tanbashi, a post station along the highway close to the Foundress’s family home (Ikeda 2007, pp. 100–101).

 

“From the 1860s to the 70s, especially, when the Foundress preached vigorously, there was terrorism and civil war in Japan.” Thus it was probably necessary for the Foundress to have “trials of strength” with male believers, to preach that “God has twice the strength” and to teach non-violence and to “Lean on God as you go”.

However, I do not agree with Ikeda in the following regard.

 

At the time (Meiji 8 (1875) – Kumata) the Foundress was teaching the Muhonzutome (song and dance to pray for peace), Japan was undergoing the rebellions of former samurai against the new regime following the modern revolution of the Meiji Restoration. The Saga Rebellion was in Meiji 7 (1874), two years later came the Shinpuren Rebellion in Kumamoto and the Hagi Rebellion in Choshu, in Meiji 10 the Satsuma Rebellion. Although such rebellions appeared to be military uprisings by local military powers, they were were fundamentally hegemonic conflicts within the ruling classes – the Foundress called them “high mountains” – and the ordinary people were their victims (ibid, pp. 105–106).

 

Here Ikeda seems to be trapped by the view of the masses held by left wingers in the old days, according to which the masses are always victim of those with power. What is lacking in Ikeda’s discussion is regarding the masses as the subject of violence. When the Foundress spoke of Muhon (“struggles”), she was of course thinking of the violence of “those in high mountains” (those with power), but also, I think, of the violence of “those in low valleys” (the masses), such as the peasant uprising and riots in towns in the Edo period and the farmer’s uprisings in the Meiji era. In fact from Meiji 15 to 18, when the Foundress was alive, there was a succession of uprisings by farmers all over Japan as farmers were impoverished by Matsukata’s deflationary policy, which began in Meiji 14 (See Hasegawa 1977).

 

 

  1. Trial of Strength Explained by Foundress herself

 Foundress explained her trials of strength as follows,

 

Even when she was old, the Foundress did not weaken, and sometimes made a trial of her strength against people who came before her.

One day a wrestler came, and the Foundress, who was sitting on the upper dais, pulled his arms so that he was dragged to the upper dais, dumbfounding him. The Foundress said that needless to say ordinary peasants and townsmen are like this and that however strong one may be, God is twice as strong. This was not a case of the Foundress exercising her own power; rather it showed that God came into her.

She would pinch the back of someone’s hand between her index finger and pinky, causing unbearable pain, and astonishing all.

Many people had their strength tested in these ways. She told in detail of the trial of strength when Umetani Shirobei came before her.

“When I first began this faith, if I went against God’s wishes, I suffered great pain to my body, whereas if I tried to do as God said, my husband and others accused me and I suffered. I could not help it; there were days when I thought I would rather die. I silently got out of the bed in the dead of night and tried to throw myself down the well three times. I stood there and just before I threw myself in, I found I was paralyzed: I could not move my arms or legs. Then out of nowhere came a voice. It said: ‘Do not be impatient! I am waiting for you to get old! Go back!’

“I thought these were the words of God and I was able to go back. I could only go back to bed , and behave as if all was well. This happened three times. Then I thought the well was no good, so the next time I went to the pond, but this time my body felt so weak, I could do nothing. Then again, out of nowhere, though I could see nothing, a voice said, ‘Do not be impatient! I am waiting for you to get old! Go back!’ I could only go back and sleep. I also went three times to the pond, but I could not die as I wanted.

“God has been waiting patiently for this day. No one would think that an old woman of over 80 could have strength. If I show strength here, one can only think that this is the power of God. So God told me to undertake a trial of strength. You, take my hands and pull them as strongly as you can.”

Umetani, being a young man, pulled as strongly as he could but instead was pulled up immediately. He said he had been humbled. “When someone comes, God tells me to have a little game – so I do.”

And she said,

“Waiting for me to get old patiently means, for one thing, a woman in her 40s or 50s cannot make men listen to her through the night, but no one would doubt that a woman over 80 could. And I can make any speech. I can preach. So God was waiting very patiently for me to get old.”

 

Certainly (Moroi 1970, pp. 138–141).

 

The Shobun’iin’sho is a record of the stories passed down about the Foundress. Its author, Moroi Seiichi, never even met the Foundress. But this section about the trial of strength is reliable because it was heard from a specific person, Umetani Shirobei.

Those who encountered the Foundress’s “trials of strength” must have thought that it was unnecessary to use real violence to respond to social injustice and the persecution of Tenrikyo. All they had to do was “Lean on God as you go”.

 

 

4.Did Foundress Approved of Violence?

In the Shobun’iin’sho, in which Moroi Seiichi, an intellectual Tenrikyo believer, recorded legends of Nakayama Miki in the Meiji era, the following is recorded,

 

The Foundress said,

“In the world there are hoodlums who people call ‘boss, boss’. At first sight they look like villains. But they help people more than anybody else. They take money and possessions from those who have them, and generously give them to those in trouble and in difficulty. In this way many people in trouble are saved. So they are healthy and their body (borrowed from God – Kumata) is strong.” (Moroi 1970, p. 259)

 

Present-day Tenrikyo would deny that the Shobun’iin’sho records legends of the Foundress, dismiss it as of little value as a historical document. Nor do I believe that Miki spoke in this way. Ikeda believes that this is a historical fact regarding the Foundress (personal communication). However, the Foundress, in her writing Ofudesaki (a sacred book of Tenrikyo – Kumata), prohibits believers from using violence.

 

“Tsukihi (The moon and sun, i.e. God – Kumata) cannot bear to look on any longer.

 

That is why I shall work in all matters.

 

However strong and youthful you may be,
never think that such a state can be relied on.

 

At this time, God is openly revealed, and speaks to you freely without restriction.

(Ofudesaki, p. 207)

 

This part of Ofudesaki was quoted from vol. 13 (of 17 volumes) written in Meiji 15 (1882). The Foundress was probably thinking of the farmer’s riots caused by the Matsukata Deflation policy. From this statement of denial of violence, I do not agree with Ikeda that the Shobun’iin’sho story is a historical fact. However, up to a certain period in Tenrikyo there was a mood in which the likes of Moroi Seiichi, an intellectual, could propagate such legends. As the robbing of money and possessions was reasonable, it felt only natural that rich people should donate great sums of money.

In Ofudesaki the Foundress had this to say to believers:

 

“However strong and youthful you may be,
never think that such a state can be relied on.”

 

It was probably because there were some believers who might use violence if there was no prohibition.

Both Ofudesaki and the Shobun’iin’sho clearly show that early Tenrikyo, which aimed at “raising up the low valleys” (= salvation of the socially weak), was close to the riots of the poor people. At least one reason why the Foundress had to undertake trials of strength with male believers was to prevent her religious movement from turning to rioting. “Lean on God as you go”. You do not have to use violence.

 

 

  1. Violence based on Gender

For new Japanese religions, this-worldly religions concerned with the intense sufferings of the masses, an extremely serious problem is how to cope with the domestic violence from which housewives – a large proportion of believers – suffer. For Tenrikyo, coping with the problems of domestic violence is all the more serious because the religion regards couples as the basis (= hinagata) of human relations.

In the Anecdotes of Oyasama, the Foundress of Tenrikyo (1976), two anecdotes suggest how the Foundress reacted to this problem. In Anecdote 137, “A Single Word”, she scolded a male believer, saying: “Isaburo, you are gentle and sociable to everyone outside your house. When you are at home and face your wife, you become angry and shout at her; that is the worst thing you could do. Never do it again.” (Anecdotes, p. 101) Even the act of becoming angry and shouting at one’s wife is strictly prohibited, so physical violence towards a wife was out of the question for the Foundress.

In present-day Tenrikyo official teaching reagarding this problem is as follows: If a female believer suffers from domestic violence, being careful never to accuse the wife, the husband and wife must each receive counseling, and if the problems cannot be solved even after discussion, “Divorce after apologizing to God” is necessary. (Tenrikyo-Yamatobunkakaigi 2004).

Present-day Tenrikyo advises to be careful to ensure that female victims are not accused, but on the other hand wives are told to “respect your husband”, on the authority of Anecdote 32, “on the wife’s word”. However, such modern interpretations of Anecdote 32, “on the wife’s word” are questionable.

Gozonmei no koro, in which Takano Tomoharu wrote down what he heard from old men who had known the Foundress, includes “Inui Yasu Dan” (p. 214–222), an anecdote about Foundress from the early Meiji period (from Meiji 1 to Meiji 10).

Yasu-san, in Anecdote 32 grew up in a family of the faithful at a time when Tenrikyo was still derided. In those days hin he no ochikiri (becoming poor) was hinagata (an example of faith) in Tenrikyo. Male believers, in particular, like Zenbei, the husband of the Foundress, and her oldest son Shuji, must have been mocked.

Anecdote 32 probably originated in advice to encourage husbands to ‘drop out’ and dedicate themselves to the faith. After the death of the Foundress, when the good wife and wise mother norm was universalized in the Meiji 30s, this anecdote was misunderstood as meaning that wives should respect their husbands unconditionally, whatever their husband may be like. The Foundress said that couples should respect each other, but her pronouncement was detached from its context and misunderstandings seem to have continued even to the present.

 

 

6.Persecution of Tenrikyo

Regarding persecution directed against Tenrikyo, the Foundress was basically an advocate of non-violence. Anecdote 183, “Stormy Wind”, says:

 

“Around 1885 and 1886, opposition from Buddhist and Shinto priests and others became stronger in proportion to the rapid expansion of the path (religious faith – Kumata). Some followers lost patience to such an extent that they suggested active resistance.

 

“The Foundress compared them to a stormy wind or muddy water, and preached non-violence.

 

The people calmed themselves after hearing the Foundress’s words.” (Anecdotes, p. 144)

 

But in an unavoidable situation in 1886 the Foundress appointed Hirano Narazo (1843–1907) to her bodyguard in the permanent staff of the residence and made him practice violence (ibid, p. 148). Narazo was a notorious ex-yakuza boss in the area and became a strong believer in Tenrikyo, giving up his life as a yakuza, when his life was saved. His biography Michisugara (1920), says that it describes both good and bad things honestly. According to this book, when unfortunate things happened to people who became the enemies of Tenrio-no-mikoto (the name of God in Tenrikyo – Kumata), believers recited:

 

“Have your strongest come against Me.

God has twice the strength.”

(Ofudesaki III-84; Michisugara 1920, pp. 74–75)

 

This also supports my view in regarding trials of strength by the Foundress as a method to prevent believers from using violence.

 

 

7.Present Tenrikyo and Challenges of Free Cafeteria for Children

The reason why present-day Tenrikyo has an explanation which doesn’t explain is of course that it wants to emphasize the supremacy and originality of the Foundress. Present-day Tenrikyo explains as follows:

 

“The several episodes involving trials of strength were a way of showing that Oyasama was truly the living Shrine of God the Parent, in a manner that was simple and effective (“Acknowledgement,” Anecdotes of Oyasama, the Foundress of Tenrikyo 1976).

 

Moreover, the second leader of Tenrikyo, Nakayama Shozen, compiled the current sacred books just after World War Two. He was a graduate of the University of Tokyo and did not think as seriously of violence as the Foundress, simply wanting to show society that Tenrikyo was always a peace-loving religion.

I have already raised the question of domestic violence and gender policy regarding present-day Tenrikyo. What I want to say is that present-day Tenrikyo should react to the development of globalization and the widening income gap after the 1990s. I want to ask who “those in low valleys” are in modern Japanese society. Tenrikyo is a religion which aims at “raising up the low valleys” (= salvation of the socially weak).

Recently (2018), many Tenrikyo churches began to run cafeterias free for children (How to Begin Cafeterias for Children (Tenrikyo)). In modern Japanese society one sixth of children are living under the poverty line. I think that a free cafeteria for children is appropriate for Tenrikyo, which values parenthood and “raising up the low valleys.” I want to add that Tenrikyo churches run these cafeterias spontaneously, without orders from Headquarter. I want to support them.

 

 

(1) Umetani Shirobei is one of the earliest devotees of Tenrikyo.

(2) Ikeda Shiro asserts that not only the Foundress but also her husband Zenbei and eldest son Shuji are hinagata (= examples) of the Faith (Ikeda, ibid.). I agree with him. Genius is not a personal phenomenon but a small group phenomenon.

(3) In 2018, there are already nearly 3,000 free cafeteria for children in Japan.

 

 

 

 

Acknowledgements

This is a paper is a complete rewrite of “The Founder of Tenrikyo and the problems of violence,” Bulletin of Faculty of Letters of Aichi Gakuin vol. 37, published in 2008. For the rewrite, I owe a great deal to personal discussi0ns with Shimazono Susumu (Jochi University) and Ikada Shiro (Tenri University). Paul Mason (Aichi Gakuin University) kindly corrected my English. I am very grateful to them.

 

 

References

Hasegawa Noboru. Bakuto to Jiyu Minken [Gamblers and Free Civil Rights]. Chuko Shisho, 1977.

Ikeda, Shimozono & Seki. Nakayama Miki – Sono Shogai to Shiso [Nakayama Miki-Her Life and Thoughts]. Akashi Shoten, 1998.

Ikeda Shiro. Nakayama Miki no Sokuseki to Gunzo: Hisabetsu Minshu to Tenrikyo [Nakayama Miki’s Legacy and People: Discriminatory Masses and Tenrikyo]. Akashi Shoten, 2007.

Moroi Seiichi. Shobun’iin’sho. Tenrikyo Doyusha, 1970.

Takano Tomoharu. Gozonmei no Koro [When the Foundress was Alive]. Tenrikyo Doyusha, 2001.

Tenrikyo Church Headquarters. Anecdotes of Oyasama, the Foundress of Tenrikyo Manuscript Edition. Tenri Jihosha, 1976.

Tenrikyo Koriyama Daikyokai (ed.) Michisugara [Episodes of Faith]. Koriyama Daikyokai, 1920.

Tenri Yamato Bunka Kaigi (ed.) Michi To Shakai – Gendai Jijo o Shiansuru [Faith and Society – Thinking of Difficulties in Modern Times]. Tenrikyo Doyusha, 2004.

 

URLs

Kodomo Shokudo no Hajimekata (Tenrikyo) [How to Begin Cafeterias for Children (Tenrikyo)]. https://sites.google.com/view/eoji. Accessed 2018/09/11