「次世代搾取の連鎖」と生まれ変わり

 岩波書店の雑誌『思想』の2026年7月号の巻頭「思想の言葉」で、広井良典氏が、「『次世代搾取の連鎖』からの脱却」という文章を書いて、「場」にいない人々を無視する日本文化では、「我が亡き後に洪水は来たれ」という発想が広がっている、としています。天理教で説くような「生まれ変わり」の教えを広げれば、「自分が生まれ変わってきたときに困る」という形で、このような「次世代搾取の連鎖」からの脱却が可能ではないでしょうか?私は、真剣にそう思っています。

私の学問的業績

 私が書いた論文で、死後も読み継がれる自信があるのは、以下の3本です。1本でもあるだけ、研究者としては成功だったのかもしれません。

 

1.「宗教心理複合運動における日本的母性の位相ーGLA系教団の事例研究より」『宗教と社会』3号、「宗教と社会」学会、1996年

2.「ヤオイ女性と百合男性が出会うときー親密性は変容するか」『男らしさという病?』風媒社、2005年

3.「天理教教祖と〈暴力〉の問題系」『格差社会の宗教文化』風媒社、2022年

 

 このうち、現在でもよく引用されているのは、2番です。百合男性を論じた(おそらく)世界初の論文なので、後続研究者は、触れざるを得ないのです。1番も、信田さよ子・前公認心理士会会長の書いたものを引用した(おそらく)世界初の学会誌論文です。3番目の論文は、「天理教の発生史」に取り組む後続研究者が今後登場すれば、引用されることになるでしょう。

 

創価学会と〈儒侠〉の精神

 古書で、創価学会の故・池田大作氏と、中国の新武侠小説の世界的巨匠である故・金庸氏の対談本『旭日の世紀を求めて』(潮出版社、1998年)を入手しました。2人は、意気投合していますね。

 

池田 『三国志』と並んで、中国、日本の民衆に愛されてきた作品に『水滸伝』があります。

 青年時代、私は恩師のもと「水滸会」という青年育成のグループで奮闘を受けました。これも『水滸伝』の名にちなんだものです。東京・氷川渓谷の野外研修などで、恩師を囲みながら、『水滸伝』はじめ、世界の大小説を教材に学び合った日々は、あまりに懐かしい(p246)。

 創価学会の二代会長・戸田城聖は、会員に水滸伝と三国志を読むように勧めていたそうです。初代会長・牧口常三郎の〈侠気〉(拙著『格差社会の宗教文化』参照)は、このような〈儒侠〉の精神として二代・三代会長時代に継承されたようです。

 

  

アメリカにおけるカトリックの見直し

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASV6Z0FYXV6ZUPQJ00FM.html?ptoken=01KWNVNN9EHT2MDA1NNKZARAVX

 

  アメリカのプロテスタントには、今悪目立ちしている福音派だけではなく、主流派(左派)もいるのですが。

朝題目、夕念仏

 これは、天台宗における修行の基本だそうです。朝は、題目を唱えて元気を出す。夕方には、念仏を唱えて、心を落ち着かせる。

 ある意味では、現代日本の新宗教信者の約半分を占めるという法華系新宗教(創価学会・霊友会系諸教団)は、50年代60年代の高度経済成長期に、「24時間戦う」ための宗教だったのかもしれません。

大学教師のニヒリズム

 東大文化人類学の教授だった中根千枝氏は、イギリスの高名な文化人類学者メイヤー・フォーテスとの対談で、大学院教育について、「学者なんて5年に1人よ。あとはみんな教師にすればいいのよ」と、意気投合していたそうです。東大文化人類学が、東大社会学と違って、進学に必要な教養課程での点数が高い割に、他分野にまで名前を知られるような研究者をほとんど出さなかったのは、この「政治的には正しい」中根氏の「教師のニヒリズム」のせいだと思います。

 

藤井風の音楽と金光教

 現代日本を代表する世界的ミュージシャンの一人である藤井風は、スピリチュアルな歌い手として知られている。従来、藤井風の音楽と宗教の関わりとしては、父親の代からの信仰であるインドのサティヤ・サイババの教えとの関わりが指摘されてきた。確かに、藤井のこれまでに出した三枚のアルバムの題名は、Help Ever Hurt Never, Love All Serve All, Premaで、いずれもサイババの教えから採られている。影響関係は明らかである。しかし、藤井風の音楽には、サイババの教えだけではなく、地元の宗教である金光教の教えの影響も感じられる。

 藤井は、自己の宗教観について次のように宣言している。

 

このアルバムのタイトル曲でもある「プレマ」とは、サンスクリット語で「愛」を意味する言葉です。自己中心的な愛(カーマ)ではなく、神はすべての命の源、あるいは高次の自己ハイヤーセルフに対する神聖な愛を意味しているものだそうです。神と私たちは最も近しい良い友達であり、共に存在しています。眠っている時でも、誰がこの心臓を動かしてくれているのか?何もしていないのに、誰がこの花を咲かせてくれているのか?神がそのすべての源なのだとしたら、私たちもその神の一部であり、魂の眼を開いて見れば、全てはひとつ。すべては神であり、その神が愛であり、私もあなたも等しく神であり、愛であるということです。

 それが風さんの哲学であり、私たちが愛する風さんと共に住んでいる世界でもあります(「プレマ・訳詞」、p3)。

 

 金光教の教えの影響は、意識的なものではなく無意識的なものであるように思われる。藤井の代表曲のひとつである「まつり」には、金光教の教えである「元日の心」の教えの影響が感じられる。

 

 

祭り祭り(yeah)

毎日愛しき何かの

祭り祭り(ooh)

あれもこれもが有り難し

苦しむことは何もない

肩を落とすこた一切ない

ないない

 

好きにしてください

(Ooh ah-ah)何も知ったこっちゃない  

 

何にせよめでたい

(藤井風「まつり」アルバム『Love All Serve All』、2022年)。

 

 

 藤井風が「第二のデビュー曲」「自分の葬式の時に流してほしい曲」と位置づけている重要な楽曲である。藤井風には、「毎日がバースデイ」「毎日が母の日」というよく似た発言もある。

 

 

なあ近藤さん(信者の近藤藤守―熊田注)、今、神様の仰せられたとおりでのう、正月は一年中のことを祝うので、まことにめでたいものじゃ。よって、氏子は腹が立っても、三ヶ日じゃ、怒るな怒るなと言うじゃろ。よってのう、日々元日の心で暮らしてのう、日が暮れりゃ大晦日と思い、日々うれしゅう暮らしますのじゃ。そうすれば、家内には不和はないのじゃ。日々うれしゅう、元日の心で暮らせばよいのう(金光教本部教庁2004、,p287)。

 

 とても偶然の一致とは思えない。藤井風が生まれ育った岡山県浅口郡里庄町は、金光教の本部が存在する金光町が属する岡山県浅口市に隣接している。車で10分の距離だそうである。藤井風の実家の近所にも、金光教の教会がある。藤井風は地元を大切にし、インタビューでも、「自然と地元の人たちが自分の音楽の根っこになっている」と答えている。藤井風は、意識的に学んだのではなく、知らず知らずのうちに金光教の教えに影響されているのであろう。いわば、金光教は、藤井風の、信仰とは言わないが、「想像力の慣用語」(サンタヤナ)になっている側面があると思われる。

 アメリカの哲学者であるサンタヤナの提出した概念である「想像力の慣用語」は、「信仰/不信仰」の二分法を脱構築するのに便利な概念である。

 前のジョージ・サンタヤナについていえば、彼は全能の神の存在を信じていません。不信心者ですから、分類すれば無神論になりますが、それにも変わらず神と言う考えは、彼の中に生きているんです。彼にいわせれば、“idioms of imagination”(想像力の慣用語)、というものをそれぞれの宗教は持っている。生まれてからずっと言葉の行き交いや仕草と共に育つと、《想像力の慣用語》が育まれる。それを通してものを考える方が、考える翼が伸びていくんですね(鶴見俊輔2010、p208)。

 岡山発祥の日本のローカルな新宗教である金光教の教えが、藤井風という世界的に知られたアーチストを媒介として、サイババの教えに溶け込み、「グローバルな新霊性文化」(島薗進)に影響を与えているのは、宗教学的に見て興味深い現象である。

 

 

参考文献

 

 

金光教本部教庁 金光教教典(増補改訂版) 金光教本部教庁、2004年

鶴見俊輔『かくれ佛教』ダイヤモンド社、2010年

藤井風 Love All Serve All ユニバーサル・ミュージック、2022年

Prema ユニバーサル・ミュージック、2025年