非定型うつ病の信仰治療について―マインドフルネス瞑想と禅宗―

愛知学院大学人間文化研究所紀要31号原稿(2016年9月刊行)


<題名>「非定型うつ病の信仰治療について―マインドフルネス瞑想と禅宗―」
<著者>熊田一雄(文学部宗教文化学科准教授)


<要旨>
 この論文では、非定型うつ病坐禅によって治癒したという事例研究を取り上げ、それを現代日本の宗教状況と絡めて分析する。最初に、非定型うつ病坐禅によって治癒したという事例研究を紹介する。次に、現代先進国の宗教界において流行しているマインドフルネス瞑想を紹介する。そして、マインドフルネス瞑想と坐禅の関係について検討する。最後に、坐禅がマインドフルネス瞑想よりも深いレベルで精神疾患に働きかけていることをみる。


<キーワード>
非定型うつ病/信仰治療/マインドフルネス瞑想/宗教的回心/禅宗


1.非定型うつ病坐禅
 最初に、非定型うつ病坐禅によって治癒したという事例研究を紹介する(1)。この事例研究は、貝谷・熊野(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅脳科学と精神療法』(新興医学出版社、2007年)所収の、貝谷久宣の論文「坐禅により軽快した非定型うつ病の1例」(同書、pp.89-101)に詳しく紹介されており、詳しくはそちらを参照されたい。しかし本稿では、紙数の都合もあり、また精神医学の論文ではないので、別書に掲載されている要約版を紹介しておく。

瞑想(坐禅)によって
非定型うつ病が劇的に改善
時田栄子さん(仮名)大学生・22才・女性
*成績優秀なのに自信がなくリストカットをくり返す
 栄子さんは、小学生のころから成績は常にトップで、級友からも特別視されていました。でもそのせいか、親友と呼べる人ができず、自分は嫌われているのではないかという思いがありました。
 中学生になると、自分の言ったことや他人から言われたささいなことが気になるようになりました。成績はトップなのに、常に劣等感があり、完璧にやらなければという強迫観念のようなものにつきまとわれていました。急に動悸が起きたり、呼吸が浅くなったりしたかと思うと、理由もなく不安になったり、泣きたくなったりしました。
 国立大学に入学後も成績はトップでしたが、周囲の学生が自分より優秀に見え、容姿についても自信のない状態が続きました。こんなに劣等感に苦しむなら、死んだほうがましだと思い、リストカットをくり返すようになり、悩んだすえに精神科クリニックを受診しました。
 家庭環境は、経済的には恵まれていたものの、両親の夫婦げんかがたえませんでした。父親は無口で、栄子さんにはやさしかったのですが、母親にはときどき暴力をふるいました。母親は神経質で感情的なところがあり、しょっちゅう栄子さんに夫のぐちと悪口を言いましたが、よく面倒をみてくれました。

薬物療法だけでは治らなかったが、坐禅により世界が一変
 クリニックでは、中程度のうつ、気分反応性、鉛様麻痺、過眠、過食、人間関係に過敏、などの症状があることから、「気分変調性障害」(非定型の性質をともなうもの)と診断されました。抗うつ薬抗不安薬、少量の抗精神病理薬などで治療を行いましたが、なかなか改善しませんでした。両親がけんかをするたびに、父親に対する恐怖感や母親に対する同情心だけでは説明がつかない複雑な気持ちにかられ、大声で叫びたくなりました。大学はいったん休学、その後復学しましたが、長くはつづかず、結局、長期間の休学になりました。
 主治医からは、薬物療法だけでは限界があるといわれ、坐禅をすすめられました。病気(熊田註;非定型うつ病)が治るものならと、栄子さんは積極的に坐禅に取り組みました。自宅で坐禅を組むだけではなく、坐禅会に出席して禅僧の指導も受けました。
 しかし、朝から晩まで座禅しても、なかなかつらさはなくなりませんでした。2ヶ月ほどたって、これでダメなら死んでしまおうと、最後の力を振り絞って坐禅に取り組みました。すると突然、自分に「自信」が戻ってきたことを実感しました。なぜかはわかりません。失っていた「自信」が体の中心に入ってきたと感じたのです。
 それからは、世界が一変しました。母といっしょにいてもイライラせず、むしろ母のすばらしさがどんどんわかってきて、幸福を感じました。夜も30分以内に眠ることができるようになりました。軽い過眠と鉛様麻痺はしばらく残りましたが、やがてそれも消え、完治しました(2)。
 いまは、栄子さんにとってすべてが新鮮です。そして、生きている喜びを全身で感じています(貝谷2011年、p67)。


2.マインドフルネス瞑想
 次に、先進国で流行しているマンドフルネス瞑想について簡単に紹介する。

 現在、アメリカを中心に欧米では、第三世代の認知行動療法として瞑想がさかんに行われていますが、ベースとなっているのはマインドフルネスの考え方です。マインドフルネスという英語の言葉は、日本人にはあまりなじみがありませんが、「気づくこと」という意味です。何に気づくかというと、「いま自分が生きている、この瞬間の現実」に気づくのです。現実を「正しい・正しくない」「すべき・すべきでない」「良い・悪い」といった評価を加えずに、あるがままに感じ、受けいれていくのが、マインドフルネスの考え方です。
 マインドフルネスの考え方を身につけることは、「不安」「うつ」のほか、「あがりやすい」「緊張しやすい」などいろいろな心の悩みの解決にも効果があります。また、がん、エイズ、高血圧などの患者さんのQOL(生活の質)改善にも利用されています(貝谷久宣2011、pp.76-77)。


「マインドフルネス」をご存じですか?
 聞きなれない言葉ですね。正確にはマインドフルネスストレス低減法といって心理学的治療の一つです。今米国の多くの心理学教室にはマインドフルネスセンターがあり、仕事、家庭、経済に関するストレスを抱えた人、慢性疼痛の患者、不安症やパニック障害の患者、過敏性腸症候群の人、不眠や疲労に悩む人、高血圧症や頭痛患者、そしてうつ病の回復期の人が数週間から数か月間のプログラムに通っています。マインドフルネスはうつや不安症の医学的治療効果だけでなく、健常人の生活の質を高める作用もあります。では、マインドフルネスではいったいどのようにするのでしょうか?
 マインドフルネスとは、意識的に現在の瞬間に、そして瞬間瞬間に展開する体験に判断を加えず注意を払うことなのです。手元の現代精神医学事典(弘文堂2011)をひも解くと次のように書かれています。1979年にジョン・カバットジンによりマサチューセッツ大学医学部にストレス低減プログラムとして創始された瞑想とヨガを基本とした治療法。慢性疼痛、心身症摂食障害、不安障害、感情障害などが対象となる。ジョン・カバットジン鈴木大拙の禅に影響を受け、仏教を宗教としてではなく人間の悩みを解決するための精神科学としてとらえ、医療に取り入れた。その基本的考えは、煩悩からの解脱と静謐な心を求める座禅に軌を一にしている。マインドフルネスの語義は”注意を集中する”である。一瞬一瞬の呼吸や体感に意識を集中し、”ただ存在すること”を実践し、”今に生きる”ことのトレーニング実践する。これにより自己受容、的確な判断、およびセルフコントロールが可能となる。マインドフルネスはに認知行動療法に取り入れられ脚光を浴びるようになった。しかし、認知行動療法は認知の変容を目指すのに対して、マインドフルネスは認知のとらわれからの解放を誘導する。
1.
 このマインドフルネスストレス低減法の創始者ジョン・カバットジンが昨年11月に来日しました 。私は以前「マインドフルネス・瞑想・座禅の脳科学と精神療法」(新興医学出版社2007)と題する本を編んでいたので、彼のシンポジウムや講習会などを催すマインドフルネスフォーラム2012の実行委員を引き受けることになりました。このフォーラムで私は”マインドフルネスの活かし方”というテーマのシンポジウムの座長を引き受けました。演題1は長谷川メンタルヘルス研究所所長遊佐安一郎氏の「境界性パーソナリティなどで感情調節が困難な方のために」と題する演題でした。遊佐先生は、マインドフルネスは感情調節を促すことを通じて「気付き」を増やし、他のさまざまなスキル学習が上達し、治療への道を開くという話をされました。演題2は早稲田大学人間科学学術院教授熊野宏昭先生の「マインドフルネスとはどんな行動なのか」でした。この講演の中でマインドフルネスは”防衛することなく自分に生じていることを十分に体験する”(アクセプタンス)、思ったこと、考えたことがすべて現実化するという信念を捨て去ること(脱ヒュージョン)、自身を自覚する(”今ここに”の感覚に注意を集中する)、自己の客観視といった機能を高める作用を持ち、この働きが種々な心理的悩みを解決していくことが述べられました。演題3は曹洞宗国際センター所長藤田一照老師による「日常生活の中で生かすマインドフルネス」という演題でした。そのなかでジョン・カバットジンとともにマインドフルネスに貢献したもう一人の大御所ティク・ナット・ハンの偈頌についての話がありました。偈頌とは短い詩句のことで、それを唱えることにより日常生活の中の一つ一つの行為にマインドフルネスのエネルギーがいきわたるようになるということです。たとえば、手を洗う時には次のような偈頌を唱えるのです:「水が両手の上を流れていく。かけがえのない地球を保つために、どうかこの水を上手に使えますように」と。老師は、”偈頌を唱えるということは今この瞬間にとどまる一つの方法であって、自分自身に立ち返り、一つ一つの動作に対する気づきができるようになる”と述べています。このシンポジウムは日本教育会館一ツ橋ホールの900席近い会場を満員の人で埋め尽くし、熱気の中で進められました。
 2.
 翌日はマインドフルネス1日の実習に参加しました。瞑想の方法を懇切丁寧にジョン・カバットジンは解説してくれました。彼の話の中に日本曹洞宗の開祖道元禅師の言葉がしばしば出てきました。それはマインドフルネスが東洋の禅をアメリカに持ち込んで西洋禅として生活の中に生かしているように思われました。親睦会でジョン・カバットジンと直接話す機会を得ることができました。長年瞑想をやっている人だけあって、穏やかで、柔和で、重厚な人柄がにじみ出ていました。彼はマインドフルネス=禅だとはっきり断言していました。となると、マインドフルネスというソフトな言葉を持った概念を我々はいま逆輸入をしていることになります。言葉を変えていえば、日本の禅は孤高を保ち、大衆のなかに分かりやすい言葉で入ってきていなかったのかも知れません。もちろん、禅は仏教という宗教がもとになっています。しかし、仏教は宗教というよりは人の心から苦痛を取り去る方法を教える精神の科学といった局面のほうが強いのだと私は思っています。この点も、”Science of Mind”という点でもカバットジンも同一意見でした。
 現在、ほとんどの先進国ではマインドフルネスが広まっており、禅の本拠地日本での普及が一番遅れていました。これからマインドフルネスは日本でも徐々に広まっていき、不安を持つ人の光明となるでありましょう(「マインドフルネス」、http://www.fuanclinic.com/blog/?p=181

このマンドフルネス瞑想は、非定型性うつ病の治療においても一定の効果はあるようである。

 非定型うつ病の人は、感情の浮き沈みに振り回されがちです。
 瞑想は、まず体の緊張をとくことによって心の緊張もとき、「今ここでのありのまま」の自分の感情や感覚に気づくことからスタートします。自分の感情と行動の関係や、自分と周囲との関係を客観視することで、自分が本来おこなうべき行動を発見することができるのです。
 瞑想は、認知行動療法に取り入れられており、米国でも、心の病の治療に効果があると報告されています。非定型うつ病の人では、薬を使わず瞑想だけで症状が改善した人もいます(貝谷久宣(監修)2008、p82)。


3.マインドフルネス瞑想と日本の仏教界
 それでは、アメリカと異なり禅仏教の分厚い蓄積をもつ日本の仏教界は、こうした先進国で流行するマインドフル瞑想をどう受け止めているのであろうか。宗教専門紙である『中外日報』2015年10月28日号は、「どう受容するのか仏教界 マインドフルネス流行の兆し」という特集で、賛否両論の意見を紹介した上で、次のように論じている。

 だが、心理療法としてのマインドフルネスは無宗教だが、それを入り口として禅を目指す人が増えている。首都圏で坐禅道場を開く寺院では、ここ5年ほどで参加者が急増している。
 新宿・歌舞伎町に隣接する曹洞宗長光寺は毎週末、坐禅会を開くが参加者が殺到するため、2年ほど前からネットでの予約制にした。松倉太鋭住職(67)は「マインドフルネスを体験した人が増えてきた。あまりにも希望者が多いので、他の寺院も坐禅会を開いてほしい」と語る。
 臨済宗妙心寺派の東京禅センター(東京都世田谷区)では、土曜日の回を11月から予約制にした。昨年までは15人ほどの参加者だったが、今年から倍増。中山宗祐・同センター主任(31)も「女性が7割。マインドフルネスを口にする人がいる」と話す。
 曹洞宗宗務庁が認可する参禅道場の数は近年、380カ寺と横ばいだが、地方では減少傾向にある一方で、首都圏で増加している。宗務庁に届け出のない道場も多い。


「注目」「不要」の賛否両論


 仏教者はマインドフルネスをどのように受け止め、何を発信すべきか。
 井上副住職は浄土宗の教えとの整合性は模索中だが、身体や精神的な問題解決に効果があることを認めている。しかし、マインドフルネスだけをすればよいわけではないと指摘する。「震災のように多くの方が亡くなった場合、精神的な苦痛を瞑想だけで乗り越えるのは無理で、慰霊や供養などのグリーフケアが必要。命のつながりや自分の実存性などを伝えるには、やはり浄土教の教えが大切だ」と確信する。
 全国曹洞宗青年会は今年5月、マインドフルネスを知る機会を設け、ハン氏の弟子らと交流会を開いた。村山博雅・同会顧問は「これだけ流行する理由を知らなければと思った。マインドフルネスの内容に真新しいものはないと感じたが、瞑想についての詳細な分析や一般人への分かりやすい発信の仕方が、とても参考になった」と語る。
 戸松住職は「日本で流行すれば仏教に興味を持つ人が増えるだろう。だが、そのような人たちは檀家になるとは限らない。寺檀関係とは違う、信仰による新たな関係を築けるビッグチャンスとなる」と前向きに捉える。またマインドフルネスは各宗派の行や瞑想に通じるものだと指摘した上で、寺院は葬儀や法事だけでなく、念仏などを含め、このような行を実践できる機会や場所を増やすべきだと主張する。
 一方で否定的に捉える宗教者もいる。瓜生崇・真宗大谷派玄照寺住職(41)は「『本願念仏』は常識やとらわれ、思い込みから解放される教えであり、何かを行って結果を得るというものではない。自分の体験や行に依存したり、自分の心を変化させることで安らぎを得ようとすると、どうしても救われない人が出てきてしまう」と述べる。
 ネルケ無方・曹洞宗安泰寺住職も「日常の行いを一生懸命すればよいのであって、マインドフルネスを用いる必要はない。日本人は欧米の流行に弱い。気を配ること、注意することは日本人が生活の中で既にやっていることだ。主張の強い欧米人が自分を見つめるためには必要だが、内向的な日本人にはなじまないのでは」と話している。


仏教にヒントでも別物 正しい方向づけが必要
藤田一照さんに聞く 曹洞宗国際センター所長


 国内外でマインドフルネスや禅の講演、指導をする藤田一照・曹洞宗国際センター所長に聞いた。
 カバット・ジン氏が説くのは「信じなくても効く」というもので、心のエクササイズ。それは筋トレと同じで、初めから宗教的な文脈から切り離されているので、抵抗感なく受け入れられる。もともと仏教にヒントを得ているが別物と思った方がよい。それでも禅や仏教の要素があり有効であることは間違いない。
 ただ私は二つの点で批判的にも捉えている。本来、マインドフルネス(サティ)は八正道の一つの正念で、その一つだけ取り出して実践するべきではない。八正道の初めの正念と正思が、此岸から彼岸へと向かう方向を示し、残りの八正道を方向付けている。マインドフルネスには仏教でいう“正しい”方向付けが全くない。方向性がなければ、「無心で人を殺す」などのようにかつて戦争に利用されたようなものになってしまう。企業に都合の良い企業戦士を育成するマインドコントロールとすることもできるだろう。
 もう一つの問題は“私”がマインドフルネスになろうとして、単に心を飼いならそうとしているにすぎないこと。しかし、本来は努力ではなく、“私”を入れずに直接分かるような無心の心がある。禅では「求める心を捨てなさい」と言う。
 世俗的なマインドフルネスを乗り越えて、仏教者としてのビジョンを示さなくてはいけない。もっと奥(の瞑想)を望む人たちを、寺院はどのように受け入れることができるだろうか。
 まず僧侶自身が流行するマインドフルネスとは何かを学び、彼らが何を求めて寺院に来たのかを理解するのが第一歩だ。入り口はマインドフルネスでもよいが、(瞑想や修行は)それだけでは終わらない。薄っぺらな理解だけでなく、仏教はさらに奥にあるものを示すことができる。(談)(『中外日報』2015年10月28日号)

 藤田はまた、別のところで脱宗教化されたマインドフルネスに対して、仏教でいう「正見なき正念」になりかねないことに、以下のように注意を促している。

 臨床現場での応用を可能にするためにマインドフルネスをあえて仏教的文脈から切り離し、宗教色のない、万人のための注意のテクニック、スキルとして成形しなおし普及しようとした事情は理解できる。しかし筆者は縁起やつながりといった、マインドフルネス実践を正しく方向付け、その枠組みを提供するヴィジョン(仏教ではそれを正見と呼ぶ)はいわゆる宗教としてではなくても、あくまでも世俗的文脈において自然科学や心理学の知見として充分提示することができ、そのようなヴィジョンに沿ったナチュラルなマインドフルネスの訓練プログラムや指導法を工夫していくべきではないかと考えている。仏教はその工夫の作業をバックアップできる資源が蓄積されているはずである。
 今後このような展望のもとで、仏教と臨床現場が交流しつつ、マインドフルネスについてのより深い理解とより有効な実践法が結実することを願っている(藤田一照「仏教から見たマインドフルネス―世俗的マインドフルネスへの一提言―」貝谷久宣・熊野宏昭・越川房子(編)『マインドフルネス―基礎と実践―』日本評論社、2016年、pp.76-77)。

 私は、マインドフルネス瞑想は「仏教にヒントでも別物、正しい方向付けが必要」「正見なき正念になる危険性がある」とする藤田一照の意見に全面的に賛成である。マインドフルネス瞑想は、肯定的に見れば精神医療が宗教(東洋の宗教)を取り入れようとする試みであるが、否定的に見れば、精神医療は宗教的伝統のなかでもエビデンス(科学的根拠)が取れた部分しか取り込もうとしない、と見ることができる。先進国のなかではマインドフルネス瞑想の指導が出来る認知行動療法の専門家が少ない日本では、仏教、特に禅仏教の分厚い蓄積を生かして、むしろ禅仏教の伝統を再活性化すべきではないか、と考える。
  そもそも精神疾患坐禅を適応することに関しても、我流の坐禅は危険で、注意深い信仰指導が必要である。

 とにかく、頭を使わない。考えない。脳みそに、考える時間を与えない。頭を空っぽにしましょう。
 「頭を空っぽに」なんて言われると、「座禅」を思いつく人がいるかもしれませんが、一人で座禅をするのは危険です。座っている間中、色々な事が頭を駆け巡り、余計に余計な事を考えてしまいます。もし座禅を組むのなら、どこか座禅を組ましてくれるお寺に行って、たくさんの人と座りましょう。禅寺には、「作務(さむ)」といって、庭仕事や掃除、農作業をさせてくれるところもあります。作業中は、何も考えなくても良いので、助かります。探して通って下さい(「うつ病」になってしまった時、または、なりそうな時に読むページ、http://www.geocities.jp/gurakuan_acupuncture/disease090612stress.htm

4.宗教的回心と信仰治療
 最後に、本稿の冒頭で述べた「非定型うつ病の信仰治療」の事例研究に立ち返って、藤田一照がいうように、仏教はマインドフルネス瞑想の「さらに奥にあるものを示す」ことができることをみておく。
 冒頭の事例研究には、「非定型うつ病の信仰治療」が起きたときに患者が主治医に送ったメールが掲載されている。

 主治医は、薬物療法や日常的な精神療法の限界を感じ、X+3年10月、患者に坐禅を勧めたところ、病気が治るならやりたいと積極的な意志を示したので、主治医が指導して、家で坐禅をはじめた。また、それから間もなく座禅会に出席し、禅僧の指導も直接受けた。坐禅を始めて2ヶ月目のある日、次のようなメールを著者に送ってきた。

 ここ一週間、一日三時間瞑想して、昨夜ようやく第三の目が開眼しました。実を言うと、一週間前、“騙されたと思って一日中坐禅をしよう。それで三月になっても完治しなければ命を絶とう”と決心していたのです。先週は、過食、過眠、全身の重さで寝たきりになり「皆には悪いけれど、私はもうこれ以上耐える力は残っていない。」と実感し、最後の力を坐禅に使って、使い切ったところでどこか遠い島でひっそりと一人死ぬつもりでした。昨夜、戻るための準備をして荷物を下に置いたとき、次の瞬間、気付いたら私は自信を持っていました。その自信は今私の身体の中心に入ってきています。母と一緒に居ても一切イライラしません。むしろ母の素晴らしい面がどんどん私に飛び込んできて幸せです。夜も30分以内に眠ることができるようになりました。以前先生の「頭のいい貴女なら絶対できますよ」という言葉を信じて藁をすがる気持ちで坐禅しました。今はすべてが新鮮です。植木も花もみんな生きていて、その中で生きていられる素晴らしさを実感しています。数年前に死ぬ覚悟をして薬を飲んだとき、友達が心配して来てくれて、すぐ救急車で運ばれたのを思い出すと、足がガクガクして生きている喜びで号泣しました(3)。坐禅を通して、命の尊さを実感し、早く社会人になり世の中に尽くしたいと思います。来年からの勉強が楽しみでたまりません。病気をしていなかったら、こんなに命が尊いものだとは実感できなかったと思います。これが悟りかは、私にはわかりません。ただ、悟りかどうかはどうでもいいことです。私が楽になったのは真実ですから。命があるだけで今は十分です。それ以上は求めません。

 彼女は3時間の坐禅以外にも立っているときも歩くときもほぼ一日中坐禅の気持ちで過ごしたという。これ以後、不安感や抑うつ気分は一切認めていない。また、恐れていた高校の同窓会には楽しく出席でき、その後も陰性感情に襲われることはまったくない。しかし、過眠や鉛様麻痺は軽いがなお残っており、生活リズムは完全に正常に復しているとは言えない。この状態は、復学して生活リズムが健常人のそれに馴化していけば問題はなくなると推定される(貝谷久宣「坐禅により軽快した非定型うつ病の1例」貝谷・熊野(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅脳科学と精神療法』新興医学出版社、2007年、pp.93-94)。

 これは、「精神疾患坐禅で軽快した」というよりも、「坐禅を契機とした劇的な宗教的回心」が生じたので、「精神疾患が軽快した」のは副次的なことだと思われる。命の尊さの自覚、自然とのつながりの感覚、周囲への感謝―いずれも典型的な宗教的回心のモチーフである。そして、この「劇的な宗教的回心」は、仏教がマインドフルネス瞑想の「さらに奥にあるもの」を提示した例だと思われる。
 この事例研究を紹介している貝谷は精神科医であるから、坐禅についてはさらりと触れるだけですませている。しかし、これは宗教学者から見れば、非定型うつ病を契機とした宗教(禅仏教)への入信体験記である。瞑想(坐禅)に効果があったことは確かだろうが、宗教(禅仏教)のそれ以外の要素―(内在する仏性への信を説く)宗教的世界観・指導者の信仰指導・坐禅仲間との交流・さらには坐禅堂の「雰囲気」もあいまってこそ、非定型うつ病が治癒したのだと思われる。上記のメールのなかで、「戻るための準備をして荷物を下に置いたとき、次の瞬間、気付いたら私は自信を持っていました」とあることから、この宗教的回心は坐禅堂で生じたのだろう。そして、よみがえってきた「自信」とは、「自己に内在する仏性への信」のことだったのではないだろうか。
 いずれにせよ、この「非定型うつ病の信仰治療」の事例は、藤田一照がいうように、仏教はマインドフルネス瞑想の「さらに奥にあるものを示す」ことができることを示しているように思われる。


<注>
(1)非定型うつ病とは、うつ病性障害のサブタイプの一つの正式な診断名であり、メランコリー型うつ病や気分変調性障害の典型的な症状も併せ持つものの、これらとは異なる特徴を有する気分障害である。症状としては、肯定的出来事に元気づけられる気分の反応性、過食や過眠、手足が鉛となったような重さと感覚鈍麻、拒絶への敏感性を特徴とする。
 メランコリー型うつ病の患者は一般的には、うれしいことがあっても気分が改善することはないが、非定型うつ病の患者はうれしいことがあると気分が改善するといった特徴がある。また、非定型うつ病は、著しい体重増加もしくは食欲増進、過眠、手足の鈍重感、拒絶過敏性(社会でのあるいは職場での人間関係を著しく損なう)という特徴も持つ。
(2)鉛様麻痺は、手足が鉛のように重く感じられる、非定型うつ病の症状のことである。
(3)この人は、一度過量服薬によって自殺未遂をしていた。


<参考文献>
貝谷久宣・熊野宏明(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅脳科学と精神療法』新興医学出版社、2007年
貝谷久宣『非定型うつ病のことがよくわかる本―「気まぐれ」「わがまま」と誤解を受ける新型うつ病のすべて―』講談社、2008年
貝谷久宣『よくわかる/薬いらずのメンタルケア―うつ、ストレス・不安に負けない―』主婦の友社、2011年
中外日報』2015年10月28日号
貝谷久宣・熊野宏昭・越川房子(編)『マインドフルネス―基礎と実践―』日本評論社、2016年 

<参考インターネット関連サイト>
・「マインドフルネス」(2017年3月5日アクセス)、http://www.fuanclinic.com/blog/?p=181
・「「うつ病」になってしまった時、または、なりそうな時に読むページ」(2017年3月5日アクセス)、
http://www.geocities.jp/gurakuan_acupuncture/disease090612stress.htm