「人薬」ということ

 それはコミュニティケアの未来においては「人間」こそが処方されなければならない、という意味である。これを「人薬」と呼ぶ。筆者はこの言葉を「こらーる岡山診療所」の代表、山本昌知氏の談話から知った。山本氏が想田和弘監督の映画『精神』(2009年)に出演した際の発言である。
(中略)
 OPD(熊田註;OPEN DIALOGUE)の有効性がわが国でも実証されれば、生物学的治療のみならず、精神医療全般の地図そのものが書き換えられる可能性がある。しかしそれを、たとえば「革命」などと呼ぶべきではないと私は考える。
 そうした、見かけ上の混乱状況において、ありうる不変項が「人間」である。医療システムの臨界においてOPDが示唆しているのは、つまるところ“人間は人間によってしか癒やされない”という単純素朴な事実である。私たちは、繰り返し、この場所に立ち返るほかはない。その意味でOPDによる「人薬」と「現前性」の擁護は、メンタルヘルスの領域に限定されない、深い射程を持ちうるだろう(斎藤環「OPEN DIALOGUE」『現代思想ー特集/精神医療のリアル』2014年5月号、青土社、2014年、pp.76-77)。


*信仰治療を考えるにあたっても、「人薬」は大きな問題だと思います。


斎藤 我われは本当に人薬頼みなのですが、人薬だけは治療プランの中に入れ込めないのです。「この時期に人薬を投与して」とはできないわけですよ。できればいいのですが。
 だからよくいうのは、ある種の人にとって病むのは必然だけれども、治るのは偶然なのです。病んでいく過程というのは、これはもうどんどん進むしかないというときがあるのです。そこから回復する可能性はあるけれども、それはまさに人薬に頼らざるを得ない。そういう治療的な出会いを起こすのは、本当に偶然に頼るしかないんです。だからわれわれは「いい人と出会ってくれよ」と祈るしかないわけです。こうなってくると、治療者といっていいかどうかわかりませんが、我われにできるのは有意義な出会いが起こりやすい方向付けと環境設定までなのです(斎藤環×想田和弘「巻末対談『精神』が照らす日本の精神医療」想田和弘『精神病とモザイク』中央法規、2009年、pp.235-236)。


*宗教教団が、「人薬」を提供する環境になればいいと思います。