まず人柄を問うサリヴァンの方法

 現在の精神医学は症状によって診断し、その症状の薬物による撲滅を第一とする。統合失調症の診断を狭くしたのは病名にからむスティグマを考慮したといっても、それはスティグマを負う人数を減らしたにすぎない。患者をまず症状によって評価し分類し特徴づけることは、患者をそのもっとも影の部分において評価することである。これは患者の自己評価を落とし、自己尊厳を空洞化し、陰に陽に慢性状態成立に貢献しているであろう。これに対してまず人柄を問うサリヴァンの方法は、モラル・トリートメントの伝統に立つものである。私見によれば、患者の自己評価と自己尊敬を第一とすることこそ、テューク以来のモラル・トリートメントの真髄だからである。
 有効な薬物があらわれたことは、この伝統を不要にすることではない。むしろ、ますますそれが要請される事態である。サリヴァンは薬物を使わない純粋精神療法主義者ではないが、もちろん薬物は方法、手段であって、広い文脈において戦略的、戦術的に使うことによって有益になるものであり、やり方によっては有害にもなりかねない。また薬物による改善を真の改善と区別している患者が少なくない。両者の違いは感覚しうるものであるという患者がいる(中井久夫サリヴァン精神科セミナー」『サリヴァンアメリカの精神科医みすず書房、2012年(初出2006年)、p214)。


 クェーカー教徒は精神医療に親近性がある。「モラル・トリートメント」を編み出したのは彼らである。伝統的に米英の看護師はクェーカー教徒が多かった。サリヴァンの精神医療の無視できない背景であろう。サリヴァン精神科医療は、表面的には精神分析を採り入れているけれども、実際は「モラル・トリートメント」の時ならぬ復活であったという見方も可能であろう。たとえば、彼の方法と、信仰を他に押しつけることを禁じるクェーカーの信条は無関係ではあるまい(中井久夫分裂病は人間的過程である」同上、(初出1995年)、p199)。