コメント『近現代日本における民間精神療法』

 冒頭に述べたように、本書は学術的に成功しただけではなく、高価な学術論文集であるにもかかわらず、重刷され、出版は商業的にも成功した。これは、吉永も示唆しているように、本書の刊行が「時代の要請」に応えていたからであろう。私は、吉永の言う「時代の要請」の中核には、現代日本社会における精神科医療の現状に対する不満、具体的には薬物療法中心主義と認知行動療法中心主義に対する人々の不満があると思う。

 医療人類学者のクライマンは、精神医療を、一.専門家セクター、二.民間セクター、三.民俗セクターに三分した。現代日本においては、精神科医臨床心理士が担う「専門家セクター」に対する人々の根強い不満があり、それが本書で取り上げられたような「民間セクター」に対する期待に結びついているのではないだろうか。精神科医の間では毀誉褒貶があるようだが、代替医療に詳しいことは間違いない、「精神科養生のコツ」を説く精神科医神田橋條治の著作に対する大衆人気とも一脈通じていると思う。

 弱肉強食の趣もある新自由主義の経済体制下、現代日本精神科医療の現場は、薬物療法と、心理療法としては認知行動療法とに染め上がられている傾向がある。背景には、健康保険の点数に支えられた医療費削減という「会計の声」(ストラザーン)がある。「短期間で確実に効果があるという科学的根拠のある治療法」として、現代の精神科医療では、薬物療法認知行動療法ばかりがクローズアップされがちなのである。

 もちろん、薬物療法認知行動療法も、治療に効果があるという「科学的根拠」(Evidence)があるので、否定するつもりは毛頭ない。しかし、薬物療法認知行動療法が、人類が長年蓄えてきた知恵の蓄積を排除することになったとしたら、それは本末転倒の事態である。そして、宗教とは人類のそのような知恵の貯蔵庫である。

 精神科医の江口重幸は、現代日本精神科医療における薬物療法中心主義と認知行動療法中心主義を、以下のように簡潔に批判している。

 

 したがって、当人の外側に付着する障害や症状に焦点を当て、その主要症状に特異的に奏効する薬物療法で治療することが第一であり、それでも慢性化する障害にはその症状と認知的に折り合うようにさせ、心理・社会的なリハビリテーションを処方するという、きわめてわかりやすい図式化が出現した。こうした発想からすると、かつての精神療法や精神病理学的アプローチは、「内在化」した人格全体を扱おうとするために、当事者や家族のいわば「道徳的(モラリスティック)」な内的部分に立ち入ることになり、かえって忌避される傾向を生み出している(江口、二〇一九年、二八五-二八六頁)。

 

 精神科医中井久夫は、「科学的根拠に基づく医学」(EBM=Evidence Based Medicine)とは別に、「ダメでもともと医学」があってもいいのではないか、と述べている。

 

 私は、「証拠にもとづいた医学(EBM)」とともに、「ダメでもともと医学」というものがあってもいいと思うんですよ。「ダメもと医学」ですな。英語でどう言うのかわかりませんけれど、とにかくお金がかからず無害なことならいい。野球でも打率三割なら立派なんですよ。「夢に出てきたらすぐに私に言ってくるように」といっても幻聴や妄想を強めることはありません(中井、二〇〇七年、四一頁)。

 本書のいう「民間精神療法」は、中井のいう「ダメもと医学」の性格もあると思われる。また、一九世紀においては、西洋でも精神療法は催眠や暗示療法とほぼ同義であった。

 

 やや議論の道筋をはずれるが、今日使われる「精神療法」や「心理療法」(つまりpsychotherapie)という語は、一八八〇年代のオランダで、催眠=暗示療法を示す用語として鋳造され、当時の興行催眠術師の催眠術との差異を強調するために「催眠=暗示療法」に代わって使用された言葉であるという歴史を想起すべきであろう。二〇世紀に入るまで、サイコセラピーは催眠や暗示ほぼ同義だった(江口、同上(初出一九九九年),

一四三頁)。

 

 しかも、一九世紀の西洋社会では、催眠や暗示は高い治療成績を上げていたようである。

 

 (前略)患者は、来訪して、抵抗、浅い眠り、深い眠り、遊行の四段階の深度の催眠状態に入り、暗示などを加えて覚醒するというシンプルな治療である。しかし一回から数回の治療で身体疾患を含めて約七、八割が改善を見ている(うち三割は治癒)。これは当時の催眠治療では平均的な改善率である。現代のように科学的根拠のある向精神薬が処方され、精神療法が整備された時代の改善率はこれを上回るものになるだろうか(江口、同上、三三六頁)。

 

 もちろん、持ち込まれる病気の性質が現代とは違ったのだろうが、少なくとも大正時代に民間精神療法が流行したことには、「実際に治る」という事実の裏付けがあったのだろう。

 認知行動療法(CBT=Cognitive Behavioral Therapy)に対しては、力動精神療法(無意識の心理学)に比べて安価で短時間で終了するという利点の反面、「深層心理学」をもじっていえば「浅層心理学」であるとして、次のような批判もある。社会学者の平井和幸は、認知行動療法には「新自由主義的規律」の側面がある、と手厳しく批判している。

 

 これは、社会の中で集合的に解決されるべき問題を、個人の認知行動特性に過剰に帰責させ、自己コントロール・自己責任の枠組みでエンパワーさせようとするCBT(認知行動療法-熊田注)のあり方を批判し、「自己コントロールの社会化」の重要性を指摘した平井秀幸の問題提起にも関連していると言えよう(平井二〇一五年)(熊谷、二〇一七年、一四二頁)。

 

 現代日本の精神医療の「専門家セクター」が薬物療法中心主義と認知行動療法中心主義に染まりがちなことは、精神医療から、かつて宗教が担ってきた人間的な「成長」という概念が後退していることと深く関係している。精神科医の笠原嘉は、精神医療の現場から「成長」の概念が後退していることを、次のように嘆いている。

 

 もっとも、「成長」と言う言葉は今日も精神医学の世界で通用するのかどうか、検討に値するように思える。DSM-III(一九八〇年に刊行された「精神医学の統計と診断マニュアル」第三版-熊田注)以降、神経学的・公衆衛生学的精神医学が主流になってから、そして治療学でも認知学、行動療法が主流になって以降、治癒とは欠損を何らかの手段で補填することでせいぜい元の機能を取り戻す、と言う純医学的発想となり、心理的成長によって心理的退行を乗り越えるという精神医学にのみあった考え方は背景にしりぞかされた。力動論を背景にもって、長年当然の公理のように扱われてきた〝成長〟概念に昔日の力が失われた、と思うのは私だけではないだろう(笠原、二〇一一年、二〇二頁)。

 

 しかし、二一世紀に入って、インターネットから発信された「厨二病」という言葉が瞬く間に一般社会に浸透したことを見ると、一般社会においては、「成長」(天理教の言葉を借りれば「心の成人」)概念を見直そうという兆しがあるように思われる。

 以上のように、現代日本の精神医療が薬物療法中心主義と認知行動療法中心主義に染まりがちなことに対する人々の不満が、「近現代日本における民間精神療法」を再考しようという社会的ニーズになっているのだと思う。なお、私は「人をたすけて我が身たすかる」という天理教の信仰指導を実践したら、長年苦しめられた不安障害(パニック障害)が快癒した、という信仰体験談を分析した論文を書いている。よろしければご笑覧されたい(熊田、二〇一一年)。

 

<参考文献>

江口重幸『病いは物語である-文化精神医学という問い-』金剛出版、二〇一九年

笠原嘉『再び「青年期」について』みすず書房、二〇一一年

熊谷晋一郎「当事者研究とは何だろうか」松本・斉藤・井原(監修)『私はこうしてサバイバルした』日本評論社、二〇一七年

熊田一雄「不安障害の信仰治療について-天理教の事例から-」『愛知学院大学人間文化研究所紀要』二六号、二〇一一年

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_01F/01__41F/01__41_1.pdf

中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』医学書院、二〇〇七年

平井秀幸『刑務所処遇の社会学世織書房、二〇一五年