カウンセリングの陥穽

(前略)実際には、多くの場合、有害な事態を回避するためには、患者に拒絶の権利があることを告げるだけでじゅうぶんであり、さらに、有害な場合は自然にやらなく(やれなく)なることも少なくない。私が絵画を使う理由はさまざまあるが、その一つに、有害な場合には自然に描けなくなるような工夫が比較的容易だからである。
 逆にいうと、言語的精神療法には、この自然的な歯止めが乏しいという欠点が現れる可能性がある。精神科医神田橋條治が指摘した「拒絶能力の弱さ」もその一部であろう。語ることは一般によいことではなくて、ある条件下にのみよいことなのである(中井久夫「再録 統合失調症の陥穽」『統合失調症をたどる』ラグーナ出版、2015年(初出1992年)、p219)。


 薬でさえ、そうであるならば、精神療法にはさらに抵抗があってよいはずである。薬物は排泄されるが、強力な精神療法は消えない刻印を残す。強力な精神療法を経て不幸にして治癒しなかった場合の患者の後を引き受けた治療者は、その副作用がどれほどのものであるかを知っているはずである。薬と異なり、精神療法は個人的記憶に大幅に干渉し、その内容あるいは比重と文脈的意味とを変える。これは人格を変えるということである。これは精神療法の否定ではなく、何事も無条件には善ではないという平凡な事実の一例である(同上、p233)。


*日本のジャーナリズムは、製薬会社の利権の臭いがする「精神科薬物療法の陥穽」については敏感ですが、「カウンセリング(言語的精神療法)の陥穽」にはナイーヴだという印象を持っています。