森田療法の位置づけ

(前略)昭和のはじめは元より平成に入るついこの間まで、森田療法は日本の精神科医にとって当然知っているべき精神療法でした。昔の大教授も、たとえば下田先生、今村先生、内村先生らもこぞって森田療法を評価しておられたようです。「症状をあるがままにする」といった格言(?)はDSM-3(熊田註;1980年)以前の日本の精神科医ならだれでも知っています。私も、例は多くありませんが、聞き覚えの二、三の森田療法的な指示のみで劇的によくなった強迫神経症の理髪師の中年男性を思い出します。今でも診察室でふと、意識せずに森田的な構えを自分がとっているのを発見して驚くことがあります。慢性うつ状態にある人への精神療法としても「形を正す」「完全欲にとらわれない」「自信をもとうとしない」などは結構的を射ています。一種の認知行動療法とみることもできます。もっとも、森田療法自助グループの名が「生活発見の会」ということから推測できるように、その狙うところは結構深いところにあるのでしょうが。
 しかし残念ながらこのあまりに日本人的な治療法は欧米人に理解されがたく、ついに今日までグローバルになっていません。しかし私はそれを嘆くのではなく、神経症の研究とかその治療法としての精神療法には、どうしてもグローバルになりえないローカリティが必要だということを、DSM(熊田註;精神医学の診断と統計の手引き)のいわれる今日こそ、理解されてよいのではないか。そのことを森田療法は私たちに教えていると思うのです。現在流行の認知行動療法も当然現代のある種の文化の影響下にあります(笠原嘉『精神科と私-二十世紀から二十一世紀の六十年を医師として生きて-』中山書店、2012年、pp.91-92)。


森田療法は、「普遍的自然科学」というよりも「日本の宗教文化」に近いからこそ、いま再評価されるべきだと私は思います。