不安障害の信仰治療について-天理教の事例から-
愛知学院大学文学部紀要41号原稿(2012年3月刊行)
<題名>「不安障害の信仰治療について-天理教の事例から-」
<著者>熊田一雄(愛知学院大学文学部宗教文化学科准教授)
<Title>“About Faith Healing of Anxiety Disorders:From an Example of Tenrikyo”
<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor of Department of Religious Culture)
<要旨>
本稿の目的は、ある天理教信者の、「人をたすけて我が身たすかる」という信仰指導を実践したら、不安障害(パニック障害)が治癒したという信仰体験記を分析することを通じて、現代日本の精神科医療における薬物療法中心主義とその背後にある日本社会のあり方を批判することにある。もし現代日本において不安障害の患者が増加しているとすれば、ある意味では常識的な宗教的知識、「生活の知恵」がきちんと伝達されていないことにその一因があるのではないかという問題提起を行う。日本の宗教(特に新宗教)が「おたすけ」を行う際の、「たすかりたい」から「たすけたい」への視点・行動の転換は一種の認知行動療法であり、不安障害の「おたすけ」に日本の宗教界が貢献できることは今よりももっと多いのではないか。
<キーワード>
不安障害/薬物療法/認知行動療法/森田療法/天理教
―以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う(中井1990、p198)。
1.はじめに―ある天理教信者の信仰体験記
以下に引用するのは、ある天理教信者が書いた信仰体験記である。この資料は、天理教教団のご厚意で原文を入手した。著者は、執筆の時点(2010年)で50歳になる主婦で、信仰は初代である。ご主人と二人の子供がおり、娘さんは結婚して二人目がお腹にいる。毎日朝夕教会に来て、朝づとめ夕づとめ(天理教の儀礼)をして帰る信仰生活を送っているそうである。
これから私の体験したところをお話しします。自分がドッヂボールをしていて、その時にボールが当たったときに仰向けに倒れました。それが原因で自律神経失調症の中の不安神経症という病気になりました。二十四時間全身がしびれ、心臓も体から出てしまうぐらいドキドキして、頭痛もひどく、一時はどうにかなってしまうのではと思い、もうこんなに苦しいのなら、命も絶ってしまおうかと、思いましたが、子供のことを思うとそれも出来ず、毎日生きているのが、こんなに苦しいのかと思いました。
そんな時、天理教のパンフレットが郵便受けに入っていました。そのパンフレットに『人をたすけて我が身たすかる』という言葉が書いてありました。天理教なら助けてくれると思いました。すぐに教会に電話して助けを求めました。そこから私の天理教が始まりました。
私の家に教会の人が毎日二ヶ月来てくれました。その時教会の人は私の病気の事をよく聞いてくれました。その当時は今とは違って、心の病気はなかなか理解してくれませんでした。怪我と違って見た目にもわからなくて、でも話し(ママ)を教会の人はよく理解してくれました。その後、教会の奥さんのお産があり、教会にこちらから行くようになりました。
教会では、できることをいろいろさせて頂きました。今まで家からでられなかった私が、教会でいろいろな人と出会い、世界が広がった気がしました。それから毎日教会に通っていましたが、二・三年したら、姪っ子が旦那さんと姑さんとうまくいかなくなり、私に相談してきました。教会に一回行っただけで、姪っ子は夏のこどもおぢばがえり(熊田註:天理市への一種の巡礼)に行きました。そして、その年の秋に天理の修養科(修養科という所は神様の話をしたり、心の勉強したり三ヶ月研修する所です)へ行きました。
そして、修養科を出て、教会に三ヶ月住み込みし、今度は一才(ママ)の娘とふたりでアパートぐらしを始めました、それから私は教会の人たちと姪っ子のお世話をしていたのです。一才の娘の面倒を見たり、アパートの手伝いをしたりしました。それから何もわからず一軒一軒パンフレットをみんなと配ったりしました。
すると、いつの間にか自分の病気がよくなっていくことに気がつきました。まさに『人をたすけて我が身たすかる』です。そして、今では姪っ子は旦那さんと二人の子供、お腹には三人目の子供がいます。今では、私は教会に行って、掃除をしたり、教会の子供の世話をしたり、スポーツもできるようになりました。毎日がとても楽しいです。
もしあの時天理教のパンフレットがポストに入っていなかったら、天理教と出会わなかったら、私はどうなっていたかわかりません。病気は辛いけど、今は病気になって、人の病気の痛みも理解することができるし、いろいろな人との出会いもあり、病気になって少しは良かったなと思えるようになりました。そして、天理教の信者さん同志(ママ)なら誰にも相談できないこともできるし、天理教でよかったと思います。
これからは、たすけてもらった分、困っている人をたすけたいと思います。会長さんからは人をたすけたり、パンフレットを配ることで、いんねんが切れると教わりました。いんねんとは「その家の代々受けついできたもの」です。私の家のいんねんでもある心の病気です(1)。
人は、どこでどんな人とめぐり会うかわかりません。パンフレットをポストに入れ、感謝・恩を忘れず歩んでいきたいと思います。これが天理教だと思います。
みなさんも、困ったことや悩みごとがありましたら、ぜひ近くの天理教の教会に相談して下さい。
2.不安障害と精神科医療
もちろん、宗教団体の信仰体験談をそのまま受け取るのには注意が必要である。しかし、この信者が精神科医療の薬物療法だけでは治癒せず、天理教の「ひとをたすけて我が身たすかる」という信仰指導も実践することによって治癒したことは確かであろう。
この信者が「不安神経症」としているものは、現代の精神医学では「不安障害」の一種である「パニック障害」と診断されるだろう。この信者の場合、天理教の信仰生活が、精神医学でいう認知行動療法や森田療法の代わりとなって、「不安神経症」(=現代の精神医学でいう「不安障害」)が治癒したのであろう。
精神科医の伊藤雅臣は、著書『不安の病』において、「不安の病」を1.パニック障害、2.社会恐怖(対人恐怖、社会不安障害)、3.強迫性障害、4.疼痛性障害と心気症の四つに大別している(伊藤2009)。そして、「不安の病」に対する治療法として、1.薬物療法、2.認知行動療法、3.森田療法の三つを挙げている。
この信者も、精神科医療において、抗不安薬やSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)のような抗うつ薬を投与されていたのであろう。しかし、この信者の場合、薬物療法だけでは治癒しなかった。現代日本の精神科医療では、認知行動療法を施行できる訓練を受けた精神科医は多くないし、そもそも認知行動療法に健康保険の点数がつくのは「うつ病」の場合だけで、「不安障害」に認知行動療法を施行しても、健康保険の点数はつかない(2)。また、森田療法を施行できる専門医は、全国でもごくわずかしかいない(北西2003)。
以下、森田療法の用語を用いてこの信者が治癒した過程を分析してみる。この信者は、「不安と恐怖」と発作という「症状」に「精神交互作用」(=注意するほど感覚が鋭敏になるという精神過程)によって「とらわれ」、それを「はからう」ことを試みては「気分本位」の生活から脱することができず、「不安障害」の一種である「パニック障害」の症状に苦しんでいたのであろう。それが、教会の人に親身に話を聴いて貰うことによって転機を迎える。精神科医の中井久夫は、名著『治療文化論』(岩波書店、1990年)において、精神疾患の発症時においてその人の予後を決定する最大の要因は、「なんでも話せる友人が一人いるかいないか」ということではないかと指摘している(p. 129)。この人の場合、教会の人が「なんでも話せる友人」の役目を果たしたのであろう(3)。
規則正しい生活リズムの中で教会の御用をすることが「作業療法」の代わりになり、症状を悪化させる「安全行動」(恐れている状況に入るときには、いつも安全策をとるという行動)や「回避行動」(不安のために避けている行動)をやめることになったのであろう。そして、「人をたすけて我が身たすかる」という教えに基づいて、姪の子育てを「お世話」することによって、「気分本位」の生活を脱して「目的本位」の生活を送ることができるようになり、「不安や恐怖」を「あるがまま」に受け止められるようになり、不安障害が「治癒」したのであろう。
3.「たすかりたい」から「たすけたい」への転換
この信者が、病の中において直感で一縷の望みを託した天理教の教えが「人をたすけて我が身たすかる」であったことは、重要なことだと思う。「人をたすけて我が身たすかる」とは、天理教に限らず、日本の新宗教、その中でもいわゆる教団組織を作るタイプの新宗教で広く説かれている教えである。日本の宗教(特に新宗教)が「おたすけ」を行う際の「たすかりたい」から「たすけたい」への視点・行動の転換には、一種の認知行動療法の意味があるのであろう。
森田療法と宗教の関係として、宇佐晋一と木下勇作が『あるがままの世界―仏教と森田療法―』(東方出版、1987年)や『続あるがままの世界―宗教と森田療法の接点―』(東方出版、1995年)で以下のように指摘している。
そこで自分というものを守りますと、とたんに動きがとれなくなってしまいます。始終、仕事をさがし、そのものにかかわっていらっしゃるということが、さっきのお話し(ママ)にもありました。皆さんのお世話、ご町内、ご近所のこと、何でも引き受けられまして、責任をもって精いっぱいなさることが一番よろしいです。お世話がよろしいです。その点で、ここの役員さんが他の皆さん方のためにお骨折りくださるという意味も全治そのものといってよろしいですね(宇佐・木下1987、p.88)。
晋一先生(熊田註:宇佐晋一、森田療法を専門とする精神科医)は明快にこう語られる。「本来祈りというのは他人のためにすべきなのです」
晋一先生に提出する日記(熊田註:森田療法の日記療法)にはよく「一日も早く良くなるように祈っています」と自分のための祈りごとを書く人が多い。これでは治りっこないというのが、晋一先生の強調される点だ。世間的な人情としては全治することを祈願するのはごく当たり前のように思えるが、こと心に関してはこれは逆効果になるというわけだ(同上、p. 176)。
晋一先生がいつも言われているように他人のために尽くすのが人間として最も素晴らしい行為であるわけである。無論、自分への見返りの期待なしにである。もう少し、森田療法の観点から分かりやすく述べると、他人にいくら奉仕してもそれが自分可愛さのためから、出発している限り、全く無駄であろう、さらに言おう、それは自分の心の安心のためにする社会奉仕などは無為の実相とはいえないのである。はたまた、そうとなれば安心を得るばかりか、見返りを期待して却って不安をつのらすだけになる。これをさらにいうと安心を得るためにする、ありとあらゆる計らいが逆に不安をつのらすのと同じことになるではないか(宇佐・木下1995、pp.179-180)。
この天理教信者の場合のように、人によっては、現代日本の精神科医療のように抗うつ薬SSRIの投与を中心とした薬物療法のみ施される場合よりも、こうした「人をたすけて我が身たすかる」という宗教教団の信仰指導が加わった方がより効果があるのであろう。
4.薬物療法中心主義の問題点
抗うつ薬SSRIによって「不安」を鎮めるという「不安の病」に対する治療法は、あくまで対症療法であって、根本療法ではないのであろう。不安障害に対するSSRI治療は、患者が「人間が向き合うべき主体的な生き方の探求を回避するようになる」(島薗2009)ようにする危険を孕んでいると思われる(4)。
森田療法の専門医である中村敬は、不安障害に対するSSRIの投与を中心とした薬物療法を、以下のように「不安を乗り越えて生活を立て直していくための補助手段」と位置づけている(中村2008、pp.94-110)。要約しておく。
薬物療法
最近では、神経症の治療に対して広く薬物が用いられ、一定の有効性が確かめられています。神経症に使用される主な薬物とは、抗不安剤と抗うつ薬の2種類があります。
抗不安薬
抗不安薬は、別名緩和精神安定剤(マイナートランキライザー)と呼ばれ、一般的に安定剤と言われるものです。その作用は、その名のとおり不安を軽減する薬です。その他、鎮静作用、眠気作用、筋肉の緊張の弛緩作用など、いくつかの働きがあります。
抗うつ薬
元々うつ病に対する治療薬ですが、神経症に対してもその効果が認められています。抗うつ薬には、三環系抗うつ薬、四環系抗うつ薬、SSRI、SNRIと言われる4つの種類があり、それぞれに特徴や違い、副作用や問題点があります。
最近よく使用されるSSRIは、選択的にセロトニンに働く作用がありしかも副作用が少ないと言われ、神経症(不安障害)にも効果があると言われています。
薬物療法の問題点
近年はSSRIが登場したことで、神経症の治療に多くの薬物が使用されるようになりました。そのため、神経症の治療が、地元のクリニックや心療内科で広く受けられるようになりました。しかし反面、あまりにも神経症の症状を薬物で除去しようという風潮が高まり、様々な問題が生じています。
症状により、50%程度しか効果がない場合も
薬物療法では、パニック障害のように効果の高いものもありますが、強迫性障害や社会恐怖のように50%程度しか効果がないものもあります。
またうつ病等に比べてスッキリ治ることは少なく、症状の緩和はあっても多少、症状が残ることが少なくありません。
薬をやめると再発する場合も
また依存性など、薬を中止すると症状が再発することもあり、服薬を中止する事が困難になる場合があります。多くの医師は薬によって症状を除去しようとしますが、これがかえって薬の量を増やしたり、次々と新しい種類に変えることにもなりかねません。
薬物療法への接し方
神経症者には、薬に対する潜在的な不安があります。例えば、副作用や薬に対する依存性(自分でコントロールできなくなる恐れ)などです。
また不安が原因で病院を受診しているため、医師から受動的に処方された薬である程度、不安感や無力感は改善されますが、受け身の立場であるため、薬をやめるときに、あらためて潜在的な無力感が表に出てきます。
したがって薬を使用する場合、「不安をなくすこと」「症状をなくすこと」を最終の目標にするのではなく、患者さんは、「不安を乗り越えて生活を立て直していくための補助手段として薬を位置づける」ことが大切です。ここに、患者さんの本来の根本的な回復力を発揮させる鍵があります。
5.おわりに―「生活の知恵」の欠落
認知行動療法と森田療法は、「不安が不安を呼ぶ」悪循環を打破しようという点では類似した心理療法である。筆者がある精神科医に認知行動療法と森田療法について尋ねたところ、「うつ病の治療に認知行動療法を施行すれば健康保険の点数が一応はつくが、点数が低すぎてまともに施行していたらクリニックが倒産してしまう」「認知行動療法が教えているのはある意味では常識的なことなので、市販のワークブックを購入して患者さんが自習してほしい」(5)「森田療法は、慈恵医大(熊田註:森田療法の創始者である森田正馬が勤務していた大学)精神科の一部の医師が行っているだけで、日本精神神経学会の主流派からは相手にもされていない」ということであった(2011年時点のインタビューによる)。
確かに、認知行動療法の教えるところは、「ある意味では常識的なこと」である。また、北西憲二が示唆するように、森田療法は科学というよりも「宗教」に近い(北西2001)。しかし、もし現代日本において「不安障害」の患者が増加しているとすれば、その背後にある根本的な問題のひとつは、「ある意味では常識的な」知識、特に「宗教的な」知識、いわば「生活の知恵」がきちんと伝達されていないことにあるのではないだろうか(6)(<資料1>参照)。「ひとをたすけて我が身たすかる」という信仰指導を実践することによって不安障害(パニック障害)が治癒したというこの天理教信者の事例は、現代日本の精神科医療の薬物療法中心主義、さらにはその背後にある日本社会のあり方について、そうした重い問いを突きつけているように思われる。
『読売新聞』2011年7月6日号によれば、現代日本では、イギリスをモデルとして、認知行動療法の専門家を増員しようとする動きがある(cf.清水(監修)2010)。
うつ病治療が薬物治療に偏る中、国立精神・神経医療研究センター(小平市)で、薬だけに頼らない治療の専門家を育てる認知行動療法センターが今月(熊田註:2011年7月)、本格的に始動した。
欧米で普及している「認知行動療法」の専門家育成機関という全国でも珍しい組織で、関係者の期待が高まっている。
認知行動療法は、物事に対する考え方や行動パターンを変えることで、患者の心の負担を軽くする治療法。地域医療に認知行動療法が定着した英国では、薬物療法と併用することで、自殺率が低下するなどの効果が出ているという。
国立精神・神経医療研究センターでは4月、「認知行動療法センター」の事務局が発足。6月には、初代センター長に日本認知療法学会の理事長の大野裕氏を迎え、体制を整えた。
今後、医師、看護師、保健師らを対象に、研修会を開催。認知行動療法について講義やグループワークなどを通じて、年間100人の専門家を育成することを目標としている。
認知行動療法の専門家を増員しようとするこの動きは、うつ病や不安障害の治療における薬物療法中心主義からの脱却という点では評価できる。しかし、この動きには現代社会における人間関係の希薄化を追認している側面もあることにも注意しなければならないのではないか。日本の宗教(特に新宗教)が不安障害の「おたすけ」に貢献できることは、今よりももっと多いのではないだろうか。
本稿は、不安障害に対して天理教の信仰指導が成功した事例を分析した。しかし、もちろん不安障害、さらに一般に精神疾患に対して信仰指導が失敗した事例も少なくないだろう。信仰指導の失敗事例の分析は、今後の研究課題としたい。
<註>
(1)この信者の「いんねん」概念についての理解は、天理教から見れば間違っている。
(2)2011年2月7日に放映されたNHK『クローズアップ現代』は、「うつは心から治せるか―注目される認知行動療法―」という特集であった。番組中、うつ病の治療に認知行動療法を施行している日本の医療機関は、全体のわずか2%にすぎないと紹介されていた。日本では、心理学や社会学もマスターし“全人的”なカウンセリングを行える医師が少なく、臨床心理士なども国家資格として認められていないため、担い手が不足していることが原因として指摘されていた。
(3)天理教では、このように苦悩する人の語りを徹底的に「聴く」ことを、「聴きだすけ」と呼ぶ(熊田2011b)。
(4)島薗進は、精神科薬物療法流行の問題点を、以下のように整理している。(1)患者や患者と似た悩みを持つ人にとって利益が疑わしい措置がなされている疑いがある、(2)患者に対する薬物処方による管理が推進され、患者へのケアやよりよい生活への配慮は軽んじられがちになる、(3)精神疾患、精神障害を引き起こす社会的要因が隠蔽され、抑圧的な環境の改善から注意をそらすことになる、(4)人間が向き合うべき主体的な生き方の探求を回避するようになる、(5)薬物が医師の処方を離れて用いられ、適切な医療目的以外で用いられる可能性が高い(島薗、同上)。
(5)認知行動療法を学ぶワークブックは、多数出版されている。例えば、大野(2003)。
(6)2008年11月2日の「朝日新聞」朝刊・医療コーナーで、「不安障害―働き盛りに増加―薬物・認知行動療法で多くは改善」という特集が組まれていた。不安障害の中では、パニック障害と社会不安障害(熊田註:「対人恐怖」というのは、日本独特の表現)・強迫性障害の三つが代表的だとされ、「日本人の10人に1人くらいの割合で症状に悩んでいる人がいる、というデータがある。働き盛りの20歳から40歳に増えている印象だ」という専門医の見解が紹介されていた。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を中心とした薬物療法と認知行動療法を組み合わせた治療で、約1年後には多くの人が改善するとされている。この記事では、「なのに、まだ受診をためらう人が少なくない」と専門医は指摘している。
<謝辞>
本稿は、私の論文「不安障害と日本の宗教―天理教の事例―」(熊田2011a)に加筆修正を加えたものである。前の論文と、それを元にした日本宗教学会第70回大会における口頭発表にコメントをつけていただいた方々に深く感謝したい。
<参考文献>
『朝日新聞』2008年11月2日
伊藤雅臣『不安の病』星和書店、2009年
宇佐晋一・木下勇作『あるがままの世界―仏教と森田療法―』東方出版、1987年
宇佐晋一・木下勇作『続あるがままの世界―宗教と森田療法の接点―』東方出版、1995年
NHK『クローズアップ現代』2011年2月7日放映「うつは“心”から治せるか―注目される認知行動療法―」
大野裕『こころが晴れるノート―うつと不安の認知行動療法自習帳―』創元社、2003年
北西憲二『我執の病理―森田療法による「生きること」の探求―』白楊社、2001年
北西憲二(監修)『森田療法のすべてがわかる本』講談社、2007年
熊田一雄「不安障害と日本の宗教―天理教の事例―」『愛知学院大学人間文化紀要』26号、愛知学院大学、2011年a
熊田一雄「『聴きだすけ』について」『愛知学院大学人間文化研究所所報』37号、2011年b
島薗進「慎重論の論拠を求めて―エンハンスメント論争と抗うつ薬―」『日本学報』28号、大阪大学、2009年
清水栄司(監修)「認知行動療法のすべてがわかる本」講談社、2010年
中井久夫『治療文化論―精神医学的再構築の試みー』岩波書店、1990年
中村敬『神経症を治す―患者さんと家族、同僚の方へのアドバイス―』保健同人社、2008年
『読売新聞』2011年7月6日
「みんなのメンタルヘルス総合サイト」http://www.mhlw.go.jp/kokoro/nation/4_01_00data.html
<資料1>
*「みんなのメンタルヘルス総合サイト」より