天理教の男性カリスマの研究-関根豊松の事例-

愛知学院大学文学部紀要50号原稿(2021年3月刊行)

 

 

<題名>「天理教の男性カリスマの研究-関根豊松の事例-」

<著者>熊田一雄(宗教文化学科)

 

 

<要旨>

 本稿では、「近代日本における宗教と男性性」という問題意識に基づいて、天理教史上有数の男性カリスマであった愛町分教会初代会長・関根豊松(1881-1969)の男性性を分析することである。天理教の男性カリスマについては、分派教団の教祖となった男性については研究があるが、関根豊松のような教団内カリスマについての本格的な研究はない。

 関根豊松は、ジェンダーに関しては、普通の「戦前の男」の考え方をしていた。ただし、薄化粧をするなど、「戦前の男」には珍しいところもあった。これは、彼が幼い頃から嗜んできた日本舞踊という近世の芸道の影響だと考えられる。弟子に対する厳しい「仕込み」にも、日本舞踊のしつけの影響が考えられる。

「神との関係」に関しては、「絶対にあぐらをかかない」というように、「道については自分を許さない」スタンスで、「男性であること」に一切甘えなかった。男性でありながら「神一条」のことに関しては、一切妥協しなかったことが、関根豊松のカリスマ性の一因であると考えられる。

 

 

<キーワード>

天理教の男性カリスマ/戦前の男/日本舞踊/厳しい仕込み/自分を許さない

 

 

  • はじめに

本稿は、「近代日本における宗教と男性性」という問題意識に基づいて、天理教史上有数の男性カリスマ・関根豊松(1881-1969)の男性性を分析することにある。天理教の男性カリスマについては、分派教団の教祖となった男性については研究があるが(ex.弓山2005)、関根豊松のような教団内カリスマについての本格的な研究はない。豊嶋泰国によれば、

 

信者からは実際に「生神さま」とも、「教祖中山みきの生まれ変わり」とも、「今教祖」とも称されていた。関根豊松がもし新宗教を起こしていたら、日本有数の教団になっていたと断言してよい。それほどその霊能力と組織力はずばぬけていたのである。

関根を頼ってくる病人は基本的に誰でも治した。「治してやるよ」という言葉を発するだけで、どんな重病人も必ず治ったという。またその手で撫でるだけで難病・奇病の類いまですっきりと平癒するのだった。(豊嶋1999、p178)

 

 もちろん誇張が入っているだろうが、関根豊松にそれに近い能力があったのは確かだろう。豊国は、次のように説明する。

 

  関根は天理教愛町分教会名古屋市千種区春岡通)の初代会長だった。天理教の教会は全国に一万七千あるが、その中で関根は霊能レベルでは断然トップで、他を寄せつけなかった。愛町分教会天理教の組織上では分教会でありながら、実際は天理教の大教会をはるかに凌駕していた。関根が大教会にしなかったのは、形式にこだわって信者に負担をかけるよりも救済活動に力点をおいたためとされている。(同上、p179)

 

正確な信者数はわからないが、参考までの数字を挙げると、1987年の教祖百年祭には10万人団参を打ち出し、13万人の参拝を達成した(渡部、p62)

 

ここで簡単に、関根豊松のライフヒストリーを述べておきたい。

 

今なら億万長者の家に生まれたけれども、間もなく父親に捨てられ、やがて母親にも捨てられ、育ての親も転々と変わった。産まれる前に両親が離婚、産まれてからも両親とも育児放棄されたため、親戚や奉公先などで育っているが、奉公先も次々に倒産していき、幼少期から辛苦・難儀が多かった。

天理教の講社に一五歳で加入し支教会に一八歳から住み込んで布教に専念する。その三年後には「手でさすっただけで病人が治る」と有名だったようである。本席・飯降先生からおさずけの理を拝戴されたのがその後の話なので、おさずけの理を戴く前から神様に沿った心使いをされており、その神徳により既に不思議な力を体得していたのではないかと思われる。

道一条になって、不思議なたすけをするようになった二十代のある日、目を患ってなかなか良くならず、家系をたどり、何代か前に親も子も妻も捨てて江戸へ出て、高利貸しをして一代で巨万の富を築き、晩年は愛人を置いて失明した人こそ前世の自分ではないかと思い、もしそうなら一代その通り返しに徹して、物乞いに落ちるいんねんを自覚し、そんな中でもやりきりますから、その証拠を目にいただきたい、とお願いしたら、目が治ったのであった。

それから徹底して理の親(親教会の教会長―熊田注)への孝行を四代貫いたのであった。大教会の土地を買ってお供えし、普請にも大きく尽くされたが、節(不幸-熊田注)あって理の親にも放られ、知多半島の岩滑に布教に飛んだが、なお白い目で見られ、その中を親に尽くし切った。理の親が満足するまでさせていただこう、と尽くし切られたのであった。

支教会に住み込みをしていた方の兄嫁を誘惑した、などの言いがかりをつけられて、

この件をきっかけに支教会の二大会長職を辞任し、一家で東京を離れて愛知へ行き、齢四〇を超えているのにまた単独布教(身一つで布教すること-熊田注)から始めた。この布教時代も子ども達を含めて筆舌尽くしがたい苦労を経ており、三年後には愛町宣教会を設置している。

その後も神業的なお助けをされ続け、やがて手で擦らなくても祈念で病気を治してしまったり、人の過去未来も見通す力や予知する力なども身に付き、「どんな病も治してしまう生き神様」と教内のみならず、中部全県で有名になり真柱(天理教のトップ-熊田注)からも「天理教中の至宝」と讃えられるようになった。

親神様、おやさまのお教え、御心に沿い切って通られたほかは、理の親への孝行に徹しきられたのであった。(渡部、p11)

 

柏木 関根先生は、何歳ぐらいから道を信仰したのかね。

関根 十四歳のとき、麹町の講社へ加入されましたが、話を聞いて教会に通ったのは七、八歳の頃からです。親からほとんど面倒をみてもらえず、人手で育てられたから、教会へ行っていた方が多かったようですね。

(『初代会長様を偲んで』p42)

 

 

2.稀代のカリスマ

豊嶋は、天理教の救済法を大きく二つに分ける。

 

 ひとつは中山みきの教理を順々と説き、相手が納得することによって助かるというもの。もう一つは相手がその場では半信半疑か、あるいはすぐに理解できなくても霊能で有無をいわさず治してしまうというものである。天理教の主流は前者の方法がほとんどである。いや、現場ではそれがすべてと言っても過言ではない。前者は本人に霊能がなくても相手が話を納得すればそれだけで多少なりとも霊験があらわれるとされているから、基本的には誰でもできるわけであるが、それだけにそれなりの徳と真実がなければ効果は薄いともいわれる。

一方、後者は誰にでもできると言うものではなく、中山みきの霊能を自分のものとして体得していなければどうにもならない。関根豊松はそんな極めて稀な後者の代表例であった。(豊嶋1999、p180)


 私は豊嶋のこの意見に賛成しない。前者と後者は別種のものではなく、後者は前者の極端な形であろう。近代医学でいうプラシーボ(偽薬)効果は、治療者のカリスマ性に左右される。関根豊松は、それだけの大カリスマだったということだろう。では、関根豊松のカリスマ性は、どのようにして確立されたのだろうか。関根豊松は、その点について以下のように説明していた。

 

関根は生前、教祖の雛型の道を踏めば誰でも自分と同じように奇跡的な徳の力をいただくことができると教え諭していた。

「教祖の雛型を踏まずに、教祖同様の不思議な奇跡をみせていただく道理はありますまい。この教会は皆さんが助かってくださるので、人々は不思議と申されますが、不思議とおっしゃる方が不思議ですよ。私たちは教祖の道を継ぐ弟子です。弟子は、教祖のなさったことを真似たらよいのです。教祖の雛型はわかるものではなく、踏むべきものです。私は教祖の雛型を踏ませていただこうと、日夜努力しました。その結果がいつの間にか今日の姿になっただけですよ」(同上、p193)

 


3.「戦前の男」としての関根豊松

 その前に、関根豊松が家族倫理に関しては、ごく平凡な「戦前の男」であったことを書いておかなければ不公平になるだろう。関根は、家族倫理について以下のような言葉を残している。

 

主人を神様のように思ってつくせば良い

 

主人にはおかずを一品余分につける タオルも別にして専用にする 靴は一番上の段に (天皇陛下と思って尽くすと良い)

 

女房が働きに出ると15年で家庭が崩壊する

 

朝は女中、昼は芸者、夜は女郎になって主人につくしたらお金にも子供にも困らない

 

顎は下が上に合わせる 目下は無条件に目上に合わせるもの

 

家は天井裏や縁の下の埃まで長男のもの

(出典は伏せる)

 

関根豊松は、家族倫理に関しては典型的な「戦前の男」だったようである。現在でもこうした古い教えはまだ一部には残っているようで、愛町の他系統の教会からは、「ネット等の情報では、愛町系は戦前の家制度や封建制度を教えに取り込み長男教を推進して、一列兄弟の教えに真っ向から逆らう事を平気で言う教師、布教所やようぼく(布教伝道者-熊田注)がたくさんいるらしいですね」という批判もある。

『初代会長五年祭』には、初代会長夫人・関根治子による、現代では信じられぬような関根豊松の、普通の感性では「男の身勝手」としかとれないことが記されている。

 

また或時は、会長様のお口から、「母さんや、今度何処か温泉へ行こうと思う」と思いがけぬ言葉を頂いたのです。お遊び事、温泉旅行などなされたことも、聞いたこともないのに、と思いました。そして会長様がおっしゃるのに、「温泉に行く時は必ずAさん(その頃会長の愛人であるかのように振る舞っていた人-熊田注)を連れて行くからね。行ったらお前は気をきかせて座をはずすんだよ」とおっしゃいました。その時の驚き、全身の血が一度に下がり、谷底に突き落とされる思いでした。

 (『初代会長五年祭』、p73)

 

 夫人は最後には結局、

 

 その道中のお話しを懇懇となさいましたその時、ハッと私の胸に、さては日々会長のなされよう、おしうちは心にもないことで、私を助ける上の心だめしであったのかと思ったとき、なんとも言えない申し訳なさに、これほどまでにご苦労下されましたのかと、ただただ勿体なさに胸いっぱいでした。

(同上、p74)

 

と、関根豊松に深く感謝することになる。しかし、当時の感覚ならとにかく、現代人の感覚では「浮気を宗教で正当化している」ようにみえなくもない。

 

 

4.「雛型の道」を踏む

 論旨をもとに戻す。それでは、関根豊松は「どのようにして」「教祖雛型の道」を踏んだのだろうか。「道のことでは自分を許さない」厳しさは、次のように伝えている。

 

お若い頃の苦労話は折にふれお聞かせ頂いたのですが、数々のご苦労の中に、どうして悪い心が出ないのかと人間として不思議なくらいでした。日々の生活におかれましては、奥様とも楽しそうにいつも万才のように、頓智を働かせては面白いことをおっしゃってみえた会長様が、一旦神殿で教理のお話をなさる時は全然別人のような厳しさに変わられました。かといって会長様は「僕の蔭でしていることを障子に穴をあけてのぞいて見ていてごらん。何をやっているか。」と信者さんの前でいつものように言われましたが、日々の行動におかれましては、一つ一つが我々では到底真似のできないことばかりでした。

(『初代会長様を偲んで』、p116)

 

思いもよらぬおシャレな一面も

編集 話題は変わりますが、会長様のおしゃれについてお聞きしたいのですが……。

奥様 会長様は思いもよらぬおしゃれな方でしてね。頭にはヘヤートニックをきちんとつけられ、櫛目正しく頭を整えられます。洗顔の後は、化粧水を肌にぬられ、眉毛もペンシルで書かれます。

なかなか左右対称にならなくて困りますがね。(笑い)

それからお着物もご自分からあれが着た い、これが着たいなどとはおっしゃいませんが、私がこんな柄がお好きじゃないかな、と考えて作らせて頂くのですが、着物を着られる時も下着からきちんと着こなしをされます。さすが昔「阪東豊」という芸名を持たれたことがあるだけに違いますね。会長様は派手好きでとても陽気な方でした。

編集 会長様のお好きな食べ物は何でしたか。

奥様 好き嫌いは絶対ありませんでしたね。でも焼きイモがお好きだったようです。

編集 会長様がお口に出されないことと、されなかったことは主にどんなことでしょうか。

奥様 口にされなかったことは「おなかが空いた。」ということですね。されなかったことは、「居眠り」と「あぐら」です。

(同上、p153)

 

 「おなかが空いた」と口にしなかったのは、食べるものにも事欠いた教祖の「貧への落ちきり」時代の「教祖ひながたの道」を踏んだのだろう。

あぐらは、日本では「男性のリラックスした姿勢」である。言い換えれば、「男性であることに甘えた楽な姿勢」である。いつも「正座」だったということは、男性であることに甘えず、いつも「教祖ひながたの道」を踏んでいたということだろう。絶対に「あぐら」をかかない、というのは、簡単なことではない。「道については自分を許さない」という関根豊松の姿勢がよく出ていると思う。関根豊松が、決してあぐらをかかなかったこと、居眠りをしなかったことについては、周囲の証言も残されている。例えば、

 

それから会長様がお車に乗られる時は、絶えずじっと外を見ておられまして、あくび一つもなされないし、絶対居眠りをなさらなかった。これには私もびっくりしましたね。ちょっと真似できないことですよ(運転手談-熊田注)。

(『初代会長様を偲んで』、p313)

 

ジェンダーレス化の進行する21世紀前半の日本では、若い世代を中心に、スキンケアや眉毛の手入れをする男性は珍しくない。また、江戸時代の大都市でも薄化粧している男性は珍しくなかった。しかし、20世紀前半の日本では、薄化粧している男性は珍しかっただろう。関根豊松は、着物に関しても、贅沢は言わなかったが、寸法にはうるさかったそうである。

 

会長様は粋なお好みでしたからお召し物のお仕立てにはなかなかと細心のご注意があり、寸法に細かくご指示ご注意を頂いて、私は女でもここまで寸法の細かいお心づかいの程に気がつかなかったことが恥ずかしく思えました。着物の着こなしの上手下手は矢張り寸法の取り方と仕立て方によるものであることを感じました。

(『初代会長様を偲んで』、p153)。

 

 また日頃、身だしなみのよい方であったのは申すまでもありませんが、髭はいつもきれいに剃られておりました。会長様にも気分の悪いときはあられたと思いますが、キチンと剃られていました。私は根っからのきれい好きなのだと思いましたが、神様にお仕えするのだと言うことと、疲れておられる時等は、信者によけいな心配はかけてはいけない、という心遣いからであったと思います。髪ばかりでなく、日常生活全ての面で、神様と信者の中に立ってお通り頂いたわけでございます。(『初代会長五年祭』、p96)

 

関根豊松のおしゃれは、「神様にお仕えする」という意識に基づくものだったのだろう。それはまた、教祖「雛型の道」を「踏む」ための努力の一環だったのだろう。天理教教祖・中山みき(1798-1887)も、少なくとも老境に達して宗教者として「道」を説くようになってからは、いつも身ぎれいな服装をしていた。記録には、次のようにある。

 

教祖(おやさま)は、中肉中背で、やや上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色も良く、鼻筋が通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差であられた。

お髪は、歳を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真っ白であられたが、いつもきちんと梳って茶筅に結うておられ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた。(『稿本 天理教教祖伝』pp.165-166)

 

 

5.日本舞踊の影響

私は、関根豊松の薄化粧や粋好みには、かれが江戸っ子であったことと、なによりも彼が日本舞踊を嗜んでいたことが大きく関係していると思う。

 

柏木 ところで、関根先生は踊りが上手だったが、いつ頃習われたのかな?

関根 こんな話を聞いているのですよ。麹町二代会長の久保清次郎先生が非常に酒好きで、夜の二時、三時までも飲んでおられて、その相手でよく踊られたということを…。

森井 名取りまでいったのですか。

関根 さあ、阪東豊という芸名で若いころ習われたようです。

柏木 また好きでもあったんだね。

森井 たとえば、いまの愛町に残っているきびしい行儀作法やしつけは、関根先生の修業当時のものが残っているように感じるんです。踊りの世界でも、そういう作法はきびしいですからね。

柏木 関根先生の伝記『因縁に勝つ』に載っている先生直筆の目本画なんかも、あれは素人離れしている。たいしたものだ。

中山 専門家の腕だよ。あの絵は。

森井 関根先生は信仰面でもさることながら普通の人間としても、ほかに類を見ないほど人生経験豊かな人でした。

柏木 それだから人がみなついて来たんだよ。暖かいところがなかったら、人はついて来ないからねえ。

関根 うちの会長は小さい七、八歳の頃から奉公先を転々と変わったが、一面大変な腕白だったそうです。

森井 では、話題を変えまして、関根先生は“黙って座ればピタリと当たる”というくらい何事でも見抜き見透しで、ピタリとおっしゃった。なんでも聞くところによると「六十歳くらいまでは六〇暫ぐらいだったが、最近になってほとんど当たるようになった。」とか…。

谷岡 「私も信仰を始めた当初はそうじゃなかったが、六十年、七十年と長年信仰をさせて頂くうちに、そうなった。」とおっしゃった。

森井 純粋に“信仰一条”で身につけられたものですね。

中山 はじめから神様のようになられたのではなく、長年の修業、色気、食気、欲の深い因縁を通り抜けて、あそこまでなられるには、まさにたいした偉人だ。

谷岡 会長さんは、晩年になってからは何一つ自分の思うことがかなわないことはなかった。

そして、晩年澄みきった心になられたと思う。

柏木 そうなるまでの道ゆきに、相当の道が通ってある。人情の機微を、知っておられるもの。

それがわからねばおたすけはできん。その人の悩みを助けられんからね。

(『初代会長を偲んで』、pp.40-41)

 

 関根豊松は、子ども時代から日本舞踊を嗜んでいた。

 

また、私が芸事の師匠として小さい時から師事しておりました人に「民丸」というお師匠さんがありました。芸はなかなか達者な人で、とりわけ私を可愛がっていろいろな芸を仕込んでくれました。こうして一生懸命仕込んで、自分の子供にして跡をとらせようと思ったらしいのですが、親戚も反対で、私も気が進みませんでしたので、これも断ってしまいました。みんなこうして断ったのは、神様がさせなさらなかった、としか考えられません。

  会長様の日本舞踊は皆様もご承知の通り「阪東豊」という芸名があり、お続けになってみえれば、今日の人間国宝的な存在だったろうと思います。学校は二、三年ほど行っただけで、九才の頃から奉公に出されました。

(『因縁に勝つ』、p15)

  

  関根豊松は小柄(身長一四七センチ、体重三七キロ)であったため、一見優男風であったが、神のことになると、ものすごく厳しい人間であったという。人間の情愛についてはきわめてやさしかったが、神一条のこととなると人が変わったように厳格だったのである。

  弟子の対してはなおさらのこと峻厳をきわめ、少しでも怠けたり、道にはずれたようなことをすると、鉄拳制裁も辞さないほど徹底的に仕込んだという。弟子が小柄の豊松の前で数時間にわたって平伏しつつ、教化を受けるという光景も珍しいことではなかった。関根の長時間におよぶ訓話中、役員や弟子が膝をくずしたり、居眠りでもしようものならば、顔色を変えて怒り「今すぐ出ていけ」とか「即刻家へ帰れ」とか痛罵した。それは早く一人前にしたいという親心だったとされる。(豊嶋、p182)

 

 関根豊松の神のことに関する厳格さは、金銭面でも発揮されていた。

 

  愛町の会長様が特に厳しかったことは、「公私を混同するな」ということ、さらに「神一条のことに私事をはさむな」ということであった。

  おさづけを取り次いで身上がたすかったり、助言して事情がたすかっても、たすけたのは神様だから、神様にお礼すべきなので、途中で人間が受け取ってはならない、とやかましかった。見るに見かねて、会長様へと差し上げた場合は受け取られたが、神様第一の線は固く守らせたのであった。

 「神の道を人間がままにするのが、これが残念やで、この残念返したことならば、待てしばしがないから、これを承知してくれ、とおやさまは仰せになった」

 と、しばしば引用された。

  おたすけ先では、お茶一つ口にしてはならないし、物一つ神様へお供えする以外は受け取ってはならん、とされた。神様のご用中はいつでもどこでもそうあるべきだった。人間が勝手をすると、お勝手元不如意となり、生活にも事欠くようになる、と教えられた。おたすけ以外の場合は、お茶だけは許された。

  「お道で知り合ったお互いは、物や金銭のやりとり、貸し借りは絶対にしてはならないよ」とやかましかった。お道を私事に利用することがいかに怖いか、実例をもって示された。違ったら、理が吹いて、ごまかせるものではなかった。

 (渡部2007、pp.24-25)

 

  また、愛町では直会もないし、酒も出ることはない。(同上、p47)

 

関根豊松の弟子に対する厳しい「仕込み」には、近代の新宗教が近世の日本舞踊という「芸道」の厳しい躾に刺激されたという側面がありそうである。弟子達は厳しく「仕込まれた」からこそ、関根豊松没後も愛町は衰退しないのだろう。

 

 

6.おわりに

 関根豊松には著書がなく、関連書籍もいまや散失しつつある。たとえば、伝記『因縁に勝つ』は、古書の相場が14~16万円である。「今のうちに」ということで論文を書いてみたが、まだ資料不足の感は否めない。しかし、天理教という「近代の新宗教」が、関根豊松というカリスマを介して、日本舞踊という「近世の芸道」に刺激されて再活性化したのが愛町分教会であるという見通しは誤っていないと思う。

 愛町分教会が急成長したのは、初代会長の関根豊松が「神一条の道」に厳しかったからである。関根豊松没後も成長したのは、関根豊松が弟子達の「仕込み」に厳しかったからである。今後もし愛町分教会が衰退することがあるとすれば、保守的な「家族倫理」からの脱却に失敗した時だろう、と言えるだろう。

 

 

<謝辞>

 本稿を草稿の段階で島薗進氏(上智大学)に読んでいただき、貴重なコメントを賜った。記して深く感謝したい。

 

 

<参考文献>

『因縁に勝つ』天理教愛町分教会、1967年

『初代会長様を偲んで』天理教愛町分教会、1970年

『初代会長五年祭』天理教愛町分教会、1974年

『稿本 天理教教祖伝』天理教道友社、1976年

豊嶋泰国『天理の霊能者』インフォメーション出版、1999年

渡部与次郎『神に近づく道』養徳社、2007年

弓山達也『天啓のゆくえ-宗教が分派するとき』日本地域社会研究所、2005年

 

 

<但し書き>

天理教愛町分教会刊行の書籍は、『初代会長五年祭』以外は原典を入手できず、関根豊松ファンがDVDに転写したものを参照した。従って、『初代会長五年祭』以外は参照ページ数が原典と異なる。