天理教

天理教教祖と「民衆の暴力」

天理教の教祖中山みきの生きた時代は幕末から明治維新にかけての動乱の時代である。特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった。教祖の周辺の大和においても、文久三(一八六三)年…

天理教教祖と暴力

今年(熊田註;1998年)は天理教の教祖中山みきの誕生二百年にあたる。教祖は寛政一〇(一七九八)年四月一八日に、大和の国山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋をつとめる前川半七・きぬ夫婦の長女として生まれた。 教祖の誕生した寛政年間…

天理教教祖のB級グルメ

教祖(おやさま)は、高齢になられてから、時々、生の薩摩芋を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。 又、味醂も、小さい杯で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては、差し上げた、という。 又、芋御…

天理教教祖の「力だめし」について

力だめしの話 教祖様は、御老年に及びても、御よわり遊ばされず、時々御前へ伺ふ人々に対して、力だめしをあそばされる。 或時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引をなされたるに、力士は、下より上段の方へ、引張られかれば、大いに恐れ入りたる事…

教団への迫害

『稿本 天理教教祖伝逸話篇』一八三 悪風というものは 明治一八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職、その他、世間の反対攻撃もまた猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それらの反対に辛抱し切れなくなって、こちらから…

本を再読

天理教の出版物を再読しました。

天理教教祖の侠気について

天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき(1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。 教祖様がきかせられましたが、 『せかいには、ごろつきも…

天理教/暴動/力比べ

月日にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや 如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな この度(たび)は神が表(を…

天理教教祖の侠気

(熊田註;天理教の原典である)おふでさきに地震・大風などの文言が登場するのは「第6号」からだが、そのお歌のご執筆は教祖が奈良県庁の呼び出しに応じて円昭寺(山村御殿)へ行かれた後のことである。 月日よりたんゝ心つくしきり そのゆえなるのにんけん…

天理教と代受苦

162 親が代わりに 教祖(おやさま)は、平素あまり外へはお出ましにならなかったから、足がお疲れになるような事はないはずであるのに、時々、 「足がねまる。」 とか、 「しんどい。」とか仰せになることがあった。 ところが、かように仰せられた日は必ず、…

宗教と「疾病利得」

篠田寛一(1911−1988)の著作・『それでよろしいか』(道友社文庫(復刊シリーズ)、2011年(初出1962年))を読了しました。天理教では、布教体験記の名著とされています。終戦後の混乱期に、彼が中下層階級の病人(特に肺結核の患者)だけではなく「ならず…

無縁社会から<選択縁>へ

地域の役に立つことを常に心に置いている荒井会長(熊田註;天理教の分教会長)の“アンテナ”は、現代の難渋にも敏感に反応している。荒井会長が近年、足繁く通う場所がある。教会から約二キロ、利根川に架かる埼玉大橋近くにある「道の家 童謡のふるさとおお…

天理教教祖の<内蔵籠もり>

天理教の教団内刊行物「グローカル天理」118号に、私の天理教教祖論が紹介されています。私は、「新宗教研究は教団人にも引用されて一人前」と思っているので、素直に嬉しいです。教団内刊行物の「精神障害者とおたすけ」(1996年・非売品)のコピーも入手し…

「宗教と社会」16号原稿

*学会誌「宗教と社会」16号(2010年6月刊行予定)より報告2. 天理教教祖は強い父の夢を見たか?―日本の宗教界と宗教学の共犯関係― この報告では、天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)は「生涯強かった父の面影を追っていた」という、島薗進の天理教教…

天理教教祖は強い父の夢を見たか?ー日本の宗教界と宗教学の共犯関係ー

*『愛知学院大学人間文化研究所紀要』24号より転載 <題名>「天理教教祖は強い父の夢を見たか?―日本の宗教界と宗教学の共犯関係―」 <著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授) <Title>“Did the Founder of Tenrikyo Dream of Strong Father?―Complicity b…

天理教教祖夫婦の関係について

池田士郎さんの労作「中山みきの足跡と群像ー被差別民衆と天理教」(明石書店、2007年)を再読しました。「ひながた(=信仰の模範)・善兵衞」という視点を明確に打ち出されたのは、池田さんの大きな学問的功績だと思います。しかし、先駆的研究者の常とし…

天理教と東大宗教学(2)

以前、天理教の二代目真柱(=教主)・中山正善(1905-1967)による教典編集の功罪について書いておきました。 http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20080307 ここでは、同じ問題を、中山正善が東大文学部宗教学科在学中に師事した、東大の宗教学講座の初代教授・…

天理教教祖の改良主義

五七 男の子は、父親付きで 明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子ども二、三名と、村の西側を流れる佐保川に川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと大層腫…

バタード・ウーマンから大教会長へ

古書で、高橋兵輔「中川輿志」天理教道友社、1949年、を入手しました。天理教の東京布教の道筋をつけた東本大教会初代の女性会長・中川よし(1869(明治2年)ー1916(大正5年))の伝記は何種類も出ていますが、この本が史料的価値は一番高いそうです。この…

明日は少しましになれ

シンガソング・ライターの中島みゆきは天理教のとても熱心な信者です。『泥海の中から』の曲は、天理教の信者が聴けば、お説教の歌です。

天理教教祖と家父長制

東京大学の島薗進氏は、天理教教祖が、外孫の中山真之亮(初代真柱=教主)が誕生したときに、「この子には、前川の父上の魂を流し込んだで。真の柱や。」と発言したことを根拠に、「中山みきは生涯強い父の面影を追っていた。」と論じています(島薗進「神…

天理教教祖の「力比べ」の起源

天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)が男性信者に対して行っていた「力比べ」については、先にブログ記事「天理教教祖の『力比べ』について」で考察を加えておきました。拙稿「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年も…

天理教教祖と<暴力>の問題系

愛知学院大学文学部紀要37号論文(2008年)より転載<題名>天理教教祖と<暴力>の問題系 <著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授) <要旨> この論文の目的は、日本の初期新宗教である天理教の女性教祖である中山みき(1798年-1887年)の男性信者に対する…

天理教教祖の「力比べ」の起源

天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)が男性信者に対して行っていた「力比べ」については、先にブログ記事「天理教教祖の『力比べ』について」で考察を加えておきました。拙稿「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年も…

天理教教祖の「力比べ」について

1.天理教教祖の「力比べ」 少なくとも老境に達してからの明治時代の中山みきは、自分のもとを訪れた男性たちに、「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。「稿本・天理教祖伝逸話篇」に、同じような話が複数記録され…

宗教者と被差別民衆

私は、池田士郎さん(天理大学)が「中山みきと被差別民衆」(明石書店、1996年)で展開しておられる「天理教教祖は全財産を貧しい人たちに施して、自ら被差別に落ちきった」という見解は、間違っていると思います。中山みきが、被差別民衆と「へだてる心」…

天理教とバックラッシュ

天理教の機関誌「みちのとも」2008年6月号には、「今に生きる先人の言葉」として、大正8年(!)の「生まれつき男性は理性的、女性は感情的だから、相補いあって『夫婦そろって』布教するように」という文章が紹介されていました。教団内バックラッシュは激…

天理教と東大宗教学(1)

天理教の二代目真柱(教主)・中山正善(1905-1967)に二度インタビュー取材したジャーナリストの青地晨は、「天理教ー百三十年目の信仰革命」(弘文堂新社、1968年)で、第2次世界大戦後の中山正善による「復元」(教典編纂)の功罪について、以下のように述…

天理教と出産

天理教おやさと研究所の金子珠理さんは、論文「『女は台』再考」(1995)で、天理教の保守教学で「産み育てること」が女性の徳分とされていることに対して、「産むこと」と「育てること」を分離し、前者だけを女性の徳分とすることを主張なさっています。し…

天理教教祖の夫・善兵衛について

天理教の話題です。 女性教祖・中山みき(1798-1887)に1838年に最初の神がかりが起きてから、1853年に夫・善兵衛が死去するまでのふたりの間の夫婦生活については、全く史料が残っていません。明治30年代以降の「夫唱婦随」の天理教学では描きにくい「婦唱…