天理教教祖と家父長制

 東京大学島薗進氏は、天理教教祖が、外孫の中山真之亮(初代真柱=教主)が誕生したときに、「この子には、前川の父上の魂を流し込んだで。真の柱や。」と発言したことを根拠に、「中山みきは生涯強い父の面影を追っていた。」と論じています(島薗進「神がかりから救けまで」『駒沢大学仏教学部論集』8号、1977年)。しかし、これは論旨の飛躍でしょう。1.前川の父が「強い父」であった、2.みきが前川の父を尊敬していた、という実証的根拠がありません。「天理教教祖は、確かに『雄松雌松にへだてなし』と男女平等を主張したが、家父長制を全否定していたわけではなかった。」というのが現在の天理教学の主流派の見解だと思います。私は、「みきは家父長制に関しては、革命主義者ではなかったが、改良主義者だった。」と見ています。みきが家父長制に関して改良主義者であったことがよく表れているのが、「稿本・天理教教祖伝逸話編」に所収されている「逸話五七 男の子は父親付きで」(p98-100)だと思います。この逸話で、性器を煩った男の子を教祖に会わせると、教祖は、「家のしん、しんの所に悩み。心次第で結構になるで。」と発言しています。そして、なかなか治らないと、信者に「『男の子は、父親付きで。』とお聞かせくださる。」というアドヴァイズを受けて、父親が連れてきたら、たちまち全快した、という逸話です。この逸話から、1.みきは、男性が家の「しん」であることは認めていた、2.しかし同時に、その「しん」を変えなければならないと考えていた、ということがわかります。おそらく、この逸話「男の子は父親付きで」の背景には、夫・善兵衛が変わるまでは、長男・修司は変わらなかった、という教祖自身の経験があったのでしょう。