「天理教教祖と<暴力>の問題系」を再論する

愛知学院大学大学文学部紀要48号原稿(2019年3月刊行)


<題名>「天理教教祖と<暴力>の問題系」を再論する
<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)
<Title>Rethinking “The Foundress of Tenrikyo and Violence”
<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor, Department of Religious Culture)


<要旨>
 天理教教祖の中山みき(1798-1887)は、年老いてから、男性信者としばしば力比べを行い、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。本論では、第一に社会的弱者・困窮者の救済を目指した自分の宗教運動が、貧窮者の現実の暴動にならないように、教祖は力比べを行う必要があったと論じる。また、ジェンダーに基づく暴力に関して、教祖は、妻は夫を立てるべし、とは言っていなかったことを確認する。最後に、現在の天理教子ども食堂の取り組みを紹介する。


<キーワード>
天理教教祖/力比べ/民衆による暴力/ジェンダーに基づく暴力/子ども食堂


―神話的暴力が脅かすものであるとすれば、神的暴力は有無を言わさず叩きつけるものである。神話的暴力が血にまみれているのに対して、神的暴力は全く血を流さないまま命を奪い去る(ベンヤミン2011年(原著1921年)、p73)。


1.教祖の幼少期と暴力
 池田は、教祖の幼少期と暴力との関係について次のように説明している。


 今年(熊田註;1998年)は天理教の教祖中山みきの誕生二百年にあたる。教祖は寛政一〇(一七九八)年四月一八日に、大和の国山辺三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋をつとめる前川半七・きぬ夫婦の長女として生まれた。
 教祖の誕生した寛政年間は、いわゆる寛政の改革が行われた時代である。天明の大飢饉とその後の物価騰貴で幕府や諸藩の財政は疲弊しだし、商業資本の成長は農民の土地放棄に拍車をかけ、幕藩支配体制の危機をもたらした。そこで幕府は、極端な緊縮政策に基づく幕藩体制の建て直しを図ろうとしたが、財政基盤の弱い諸藩は倹約と年貢の取り立てぐらいではとても財政再建など望むべくもなかつた。逆に厳しい倹約は人々の不満をつのらせ、各地で一揆や打ち壊しという騒動が頻発するようになった。
 教祖が誕生する二年前の寛政八年には、西三昧田と同じ津の藤堂藩領の伊勢一志郡で三万人の農民が一斉蜂起するという騒動が起こっている。また、誕生翌年の寛政一一年には、旗本山口官兵衛所領の農民たちが三昧田から一里も離れていない岩室村の源兵衛方を襲って打ち壊しをするという大騒ぎが起こっている。こうした農民騒動の噂は三昧田をはじめ近在の村々でも人々の話のたねになったにちがいない。
 わけても、父半七は後に藤堂藩より無足人に列せられ苗字帯刀を許されているが、同時に目付庄屋を兼ねていたようでもあり、農民騒擾には特に敏感であったと思われる。ともあれ、教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない(池田士郎「まえがき」池田・島薗・関1998、p5)。


 「教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない」ことは、生育期の多感なみきにいや応なく暴力の問題を真剣に考えさせたことだろう。


2.天理教と民衆による暴力
 池田は、天理教と暴力の関係を次のように説明している。


 天理教の教祖中山みきの生きた時代は幕末から明治維新にかけての動乱の時代である。特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった。教祖の周辺の大和においても、文久三(一八六三)年の八月に公卿の中山忠光を擁した天誅組が五条の幕府代官所を襲撃し倒幕を目指す内戦の口火を切った。翌年の元治元(一八六四)年五月五日には、教祖の生家がある三昧田村で幕府の間諜とみなされた絵師の冷泉為恭が長州浪人の手によって暗殺されている。
こうした体制変革の担い手は公家や武士といった特定の階級だけではなく、特に幕末期には一揆や打ち壊しという形で庶民階層にまで広がっていった。ある研究者の統計によれば、一揆の発生件数は「慶応三か年に限れば年平均は四四・三件となり、江戸時代最大」となっている。それにつれて、都市の打ち壊し件数も相当数に上ったであろう。じっさい、大和の町々でも強訴や打ち壊しが頻繁に発生していたことを地方文書は伝えている。
 このような時代状況のなかで、教祖の最初の体系的な教えが「つとめ」の地歌である『みかぐらうた』として展開された。「陽気暮らし」を教える教祖は、暴力と流言の横行する騒然とした世情のなかで「こ々はこのよのごくらくや」と宣言し、不安におびえていた多くの民衆に不思議な心の安らぎを与えた。そして、平安を希求する人々の願望に一つの道筋をつけるための方法として「つとめ」を教えはじめた。時に慶応三(一八六七)年。江戸幕府が音を立てて崩れ落ちる年のことであった。この年には、教祖の膝元といってもよい街道沿いの宿場町である丹波市村でも打ち壊しが起こっている(池田2007:pp.100-101)。


 「特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった」からこそ、教祖は男性たちと「力比べ」をして「神の方には倍の力」と説いて、暴力に訴えることなく「神にもたれて通る」ことを教え諭す必要があったのであろう。
 しかし、私は池田の次の見解には賛成しない。


 教祖が「むほんづとめ」(平和を祈る歌と踊り)を教えた頃(熊田註;明治八(一八七五)年)、日本では明治維新という近代革命後の政権のあり方をめぐって旧士族の反乱が相次いでいた。明治七(一八七四)年には佐賀の乱、九年には熊本の神風連や長州の萩の乱、一〇年には西南戦争が起こっている。こうした内乱は地方軍閥武装蜂起という形をとっているが、根本的には、教祖が「高山」と呼ぶ権力者階層の覇権争いにほかならず、民衆はその犠牲者あった(同上、pp.105-106)。


 ここで池田は、「民衆は権力者の一方的な被害者であった」という旧左翼的な民衆観に囚われているように思われる。池田に欠けているのは、「<暴力>の主体としての民衆」という視点である。教祖が「むほん(謀反)」という時、もちろん「高山」(権力者)の暴力も念頭に置かれていたが、同時に教祖は江戸時代なら「一揆・打ち壊し」、明治時代なら「農民騒擾」という形で現れるような、「谷底」(民衆)の暴力も念頭に置いていたと思う。事実、教祖存命中の明治一五年から一八年ころにかけて、明治一四年に始まる「松方デフレ政策」で窮乏した各地の農村で農民の騒擾事件が続発している(長谷川1977)。


3.力試しの話―教祖による説明−
 教祖自身は、自分の力試しについて以下のように説明している。


 教祖様は、御老年に及びても、御よわり遊ばされず、時々御前へ伺ふ人々に対して、力だめしをあそばされる。
 或時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引をなされたるに、力士は、下より上段の方へ、引張られかれば、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛のものと雖も、神の方には、敵一倍、皆この通りやとお聞かせ被下。是れ教祖様、御自身の力にあらず、正しく神様の入込み給ふ事を示し給ふなり。
 又手の甲を出さしめて、御自身のひとさし指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給ふに、痛さ身にしみて堪え兼ね、恐入らぬ者はなかりしと。
 かゝかる力だめしを受けし人々は、あまたある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあひ給う時、くはしきお咄あり(1)。
『この道の最初、かゝかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬほうがましやと思ふた日も有つたで。よる、夜中に、そっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとしたことは、三度まで有つたがな。井戸側へすつくと立って、今や飛び込まうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はしやくばつた様になつて、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、聲がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねたる〃、かへれ〃」と仰有る。
 是れは、神様の仰せだと思ふて、戻らうとすれば戻られる。是非なく、そつと寝床へはいつて、知らぬ顔して寝て終わつたが、三度ながらおなじ事やつたで。それから、もう井戸はあかんと思ふて、今度はため池へいたで、したが今度は身がすくんで終わつて、どうも仕様がなかつた。すると、やつぱり何処ともなしに、姿も、何も見えんのに「短気をだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねる〃、かへれ〃」と仰有るから、ぜひなく、戻つて寝てしまう。是も三度まで行つて見たが、遂に思ふように死ぬことは出来なんだ。
そこで、今日は神さんがな、けふの日をまちかねたのやで。もう八十すぎた年寄りで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がない、と誰も思ふやろう。こゝで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうない。よって、力だめしをして見せよと仰有るでな。おまへ、わしのてをもちて、力かぎり引つ張つて見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれ共、忽ち引上げらるゝ様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをしてみせよ、と仰有るから、してみせるのやで』とお聞かせ被下さりたりと。又仰有らるゝ に、
 『年のよるのをまちかねるといふは、一つには、四十臺や五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑ふ者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年のよるのを、えろう、お待ちかねでござったのやで』と聞かせ給ふ。尤もの事にこそ(諸井1970;pp.138-141)。


 『正文遺韻抄』はあくまで教祖についての伝承の記録である。著者の諸井政一は、教祖には会ったこともない。しかし、この部分は伝聞先が「梅谷四郎兵衛」と明記してあるので、信頼性が高い。
 天理教教祖の「力比べ」を見聞したものは、社会的不正義に対して暴力に訴えたり、天理教への迫害に対しても暴力に訴えたりする必要はなく、安心して「神にもたれて通る」信仰一筋の生活をしていればよい、と確信できただろう。


4.天理教は暴力を肯定したか?
 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。


教祖様がきかせられましたが、
『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田注;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田注;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田注;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)。


 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。天理大学の池田士郎氏は、この記述を教祖についての「正伝」と考えている(私信による)。しかし、教祖は直筆の原典(熊田注−天理教聖典)『おふでさき』で、次のように信者が暴力に訴えることをきっぱりと否定している。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや
如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田注;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな
この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから
中山みき・村上重良1977、p151)


 これは『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。教祖は、明治14年に始まる松方デフレによる農民騒擾を念頭においていたのであろう。この暴力否定の発言から、私は正文遺韻抄の上の記述が「正伝」であるという池田士郎氏の見解に賛成しない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が相応の献金をするのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。
 また、原典『おふでさき』で、教祖が信者に対して


如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田注;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな


と厳しく言わなければならなかったということは、放置しておくと暴力に訴えかねない「血の気の多い」信者も多数いたからこそであろう。
 『おふでさき』や『正文遺韻抄』は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(教団用語では「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。天理教教祖が男性信者たちと「力比べ」を行って、簡単に負かしては「神の方には倍の力」と説き続けていたことの狙いの少なくともひとつは、宗教運動が暴動へと転化することを防ぐことにあったことがわかる。


5.DVの問題
 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。天理教のように「夫婦関係」を人間関係の基本(=「ひながた」)と考えるならば、ドメスティック・バイオレンスの問題にどう対処するかは、なおのこと切実な問題である。
 「稿本・天理教教祖伝逸話篇」には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません。」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。
 現在の天理教では、信者の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあっている場合は、妻を決して責めないように細心の注意を払いながら、夫婦それぞれにカウンセリングを行い、夫婦が話し合っても解決がつかない場合は「神にお詫びした上で離婚するように」と説いている(天理やまと文化会議(編)2004)。
 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。
 高野友治が、古老からの聞き書きをまとめた労作「ご存命の頃」には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(p214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛、長男・秀司をはじめとして、みきについていく男性信者は、世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう(2)。
 逸話三二は、世間の男性の基準から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。

5.教団への迫害
 教団への迫害に関しても、教祖は基本的には非暴力主義者であった(逸話183「悪風というものは」)。


 明治十八、九年のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た(「逸話篇」、p297)


 教祖は、反対者を悪風や泥水に喩えて、非暴力を説いた。


 一同は、このお言葉に、逸やる胸を抑えた、という(同上、p299)

 
 しかし1886年には、どうしようもない状況に追い込まれて、教祖は平野楢造(1843-1907)を屋敷の常詰として彼女の護衛に任命し、自衛のために暴力を行使させている(同上、pp.305-307)。楢造は、その地域の悪名高い元やくざで、天理教に命をたすけられて、やくざ稼業からきれいに足を洗い、天理教の熱心な信者になった。楢造の伝記「道すがら」(1920)は、良いことも悪いことも正直に書いた、と述べている(p.3)。初期の天理教教団には、人々は今更ながらに天理王命(熊田注−天理教における神の名前)に敵たうた不心得者の悲惨な末路に、次のように口ずさんだ、とある。


いかほどの がうてき(熊田注−「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ 
かみのほうには ばいのちからや
(「おふでさき」3-84、「道すがら」1920、pp.74−75)。


 このことからも、教祖の「力比べ」には、信者が実際の暴力に訴えることを抑止する効果があったことがわかる。


7.現在の天理教―「子ども食堂」の挑戦―
 現在の天理教が、教祖の「力比べ」の逸話に、「力比べは、教祖が月日のやしろに坐しますという理を、姿にあらわしてお見せ下されたのである」(「はしがき」『稿本・天理教教祖教祖伝逸話篇』1976年)という説明にならない説明をしてすましているのは、もちろん教祖の至高性や独創性を強調したかったからだろう。それに加えて、教祖の場合とは違って、現在の教典を整備した東大卒の2代目真柱・中山正善にとっては、<暴力>はもはや切実な問題ではなく、単に天理教はいつの時代にも「平和」を愛する教団であったと外部社会にアピールしたかったという理由もあったのだろう。
 私は既に、DVの問題に関して、現在の教団に対する疑問を投げかけた。さらに私が問いたいのは、1990年代以降のグローバル化の進展と格差の拡大という問題に関しての疑問で、現代日本における「谷底」は誰か、ということである。天理教は、「谷底せり上げ」(=社会的弱者の救済)を目指す宗教であるはずである。最近(2018)、天理教の多くの教会が、「子ども食堂」の運営を始めた(「子ども食堂のはじめ方」)。現代日本社会では、子どもの6分の1が、貧困ライン以下の暮らしをしている。私は、「親であること」を重視し、「谷底せり上げ」を目指す天理教に「子ども食堂」はとてもよく似合うと思う(3)。教団本部の指示なしに、多くの教会が自主的に運営していることにも注目したい。応援したいと思う。


<謝辞>
 この論文は、熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年、を全面的に改稿したものである。改稿に当たっては、島薗進氏(上智大学)と池田士郎氏(天理大学)との議論から多くを学んだ。記して深く感謝したい。


<注>
(1)梅谷四朗兵衛は、天理教初期の篤信者のひとりである。
(2)池田は、教祖だけでなく、教祖の夫・善兵衛、長男・修司を含めて、教祖の一家全員を「道のひながた」(=信仰の模範)とする見解を打ち出している(池田2007)。私も、この点は池田に賛成である。天才とは、個人現象ではなく小集団現象である。
(3)2018年時点で、日本には既に3,000近い子ども食堂がある。


<参考文献>
池田・島薗・関『中山みき―その生涯と思想―』明石書店、1998年
池田士郎『中山みきの足跡と群像―被差別民衆と天理教―』明石書店、2007年
ヴァルター・ベンヤミン「暴力の批判的検討」『ベンヤミン・アンソロジー河出文庫、2011年(原著1921年)
高野友治『御存命の頃』天理教道友社, 2001年
天理教教会本部(編)『稿本 天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社 1976年
天理教郡山大教会(編)『道すがら』郡山大教会1920年
天理大和文化会議(編)『道と現代社会―現代事情を思案する―』天理教道友社、2004年
中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年
谷川昇博徒と自由民権』中公新書, 1977年
諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社, 1970年


<参考URL>
子ども食堂の始め方(天理教)
https://sites.google.com/view/eoji
(2018/09/11閲覧)