天理教教祖は強い父の夢を見たか?ー日本の宗教界と宗教学の共犯関係ー

*『愛知学院大学人間文化研究所紀要』24号より転載
<題名>「天理教教祖は強い父の夢を見たか?―日本の宗教界と宗教学の共犯関係―」
<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)


<Title>“Did the Founder of Tenrikyo Dream of Strong Father?―Complicity between Japanese Religions and Religious Studies”
<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor, Department of Studies of Religious Culture)


<要旨>
この論文では、天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)は「生涯強かった父の面影を追っていた」という、島薗進天理教教祖論(「強い父」仮説)を素材として、日本の宗教界と宗教学が、男性中心主義という点で共犯関係を結んでいることを批判する。


<キーワード>
天理教教祖/家父長制/「強い父」/改良主義/ドメスティック・バイオレンス


1.天理教教祖と家父長制
 東京大学島薗進は、天理教教祖が、外孫の中山真之亮(初代真柱=教主)が誕生したときに、「今度、(熊田註;みきの三女の)おはるには、前川の父の魂を流し込んだ。しんばしらの真之亮やで。」と語ったことをただひとつの実証的根拠として、「みきは生涯にわたって、強かった実父の姿を追い求めていたように思われる」と論じている(島薗、1977;p.214)。しかし、これは論旨の飛躍であろう。1.前川の父が「強い父」であった、2.みきが前川の父を尊敬していた、という実証的根拠が、どちらにもない。「浄土宗の尼僧になりたい」という自分の希望を拒否されたことに反発していた可能性もある。
 「天理教教祖は、確かに『雄松雌松にへだてなし』と男女平等を主張したが、家父長制を全否定していたわけではなかった」というのが現在の天理教学の主流派の見解だと思われる。島薗は、後の論文で、みきは近世的な家とも性別分業を特徴とする近代家族とも異なる「近代庶民家族」を展望していた、と主張する(同上、1998)。

 中山みきが思い描いた共同性とは、平凡な主婦中心の家族の日常生活を高いものとして重んじつつ、それを孤立させずに、広い社会生活のネットワークの中に根づかせようとするものだったといえるだろう(同上;p.131)。

 私も、この見解には賛成である。それでは、島薗は「みきは生涯にわたって、強かった実父の姿を追い求めていた」という上述の見解と、みきは「近代庶民家族」を思い描いていた、というこの見解は、どのような関係にあるのだろうか。この点については、島薗は、「みきは男女平等と家的なものとの間で揺れていた」と見ている。しかし、夫婦関係という基本的な事柄について見解が揺れていた教祖に信者がついていったとは考えにくい。
 島薗のこの論文は、日本宗教学会の学会賞を受賞し、島薗のこの「『強い父』仮説」は、金子珠理のようなフェミニストを自認する研究者にさえ認められている(1)。島薗の、天理教教祖に関する「『強い父』仮説」は、日本の宗教学において一定の評価を得ていると見ていいだろう。しかし、本当に中山みきは「強い父の夢を見た」のだろうか? 私は、そうは思わない。以下に、その実証的根拠を述べる。


2.天理教教祖の改良主義
 私は、みきは家父長制に関しては、確かに革命主義者ではなかったが、改良主義者だった、と見ている。みきが家父長制に関して改良主義者であったことがよく表れているのが、『稿本天理教教祖伝逸話篇』に所収されている「逸話五七 男の子は、父親付きで」だと思われる。この逸話で、性器を煩った男の子を教祖に会わせると、教祖は、「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」と発言している。そして、なかなか治らないと、信者から「『男の子は、父親付きで。』とお聞かせくださる。」というアドヴァイスを受け、父親が連れてきたら、たちまち全快した、という逸話である。全文を紹介しておく。

五七 男の子は、父親付きで
  明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子ども二、三名と、村の西側を流れる佐保川に川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと大層腫れてきた。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種々と手をつくしたが、一向効しは見えなかった。
  その頃、同村の喜多次郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、すでに熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心するものを笑っていたくらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝いをやめるか、信心するか、どちらかにしてもらいたい。」とまでいったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。
  そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ご覧いただくと、教祖は、
   「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のならが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしくご守護をいただけない。
  明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、
「『男の子は、父親付きで。』とお聞かせくださる。一度、惣五郎さんが連れて参りなされ。」と言ってくれた。それで、家に戻ってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ。」と言った。
  それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっかり全快のご守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様のご守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった(「稿本天理教教祖伝逸話篇」;pp.98-100)。

 この逸話から、天理教教祖が、1.男性(父−息子のライン)が家の「しん」であるという当時の社会的通念はとりあえず認めていた、2.しかし、同時にその「しん」を変えなければならないと考えていた、ということがわかる。天理教教祖は、男女平等に関しては確かに革命主義者ではなかったが、改良主義者だったのであろう。おそらく、この逸話「男の子は、父親付きで」の背景には、夫・善兵衞が変わるまでは、長男・秀司は変わらなかった、という教祖自身の経験があったのだろう。


3.天理教教祖の夫・善兵衞について
 女性教祖・中山みき(1798-1887)に1838年に最初の神がかりが起きてから、1853年に夫・善兵衞が死去するまでのふたりの間の夫婦生活については、少なくとも公開されている史料はほとんど残っていない。明治30年代以降の「夫唱婦随」を説く天理教学では描きにくい「婦唱夫随」の関係だったのではないか、と私は推測するのだが、善兵衞が逝去した1853年には、まだ家族以外には信者がいなかったこともあり、史料はないと思われる。天理大学の池田士郎は、労作『中山みきの足跡と群像―被差別民衆と天理教』(明石書店、2007年)において、「教祖の夫・善兵衞は教祖の最初の理解者であった」という視点を明確に打ち出している。私もそうだったのではないか、と推測している。しかし、先駆的研究者の常として、池田には「勇み足」と思える分析もある(2)。
 池田は、教祖みきの「明日は、家の高屏を取り払え」という発言を根拠として、当時の大和地方の家屋の構造からして、「教祖は夫・善兵衞に家父長権の放棄を厳しく迫っていた」のではないか、と推測している。いわば、天理教教祖は男女平等に関して「革命主義者」だった、という見解である。しかし、これは証拠不足で無理な議論だと思われる。少なくとも、教団の保守的教学者を論破するには、証拠不足の感が否めない。


4.教団初期の女性布教者の事例
 この節では、教団初期の有力な女性布教者であった中川よしの夫婦関係を考察し、みきと善兵衞の夫婦関係を考える手がかりとしたい。
古書で、高橋兵輔『中川輿志』天理教道友社、1949年、を入手した。天理教の東京布教の道筋をつけた東本大教会初代の女性会長・中川よし(1869−1916)の伝記は何種類も出ているが、この本が史料的価値は一番高いそうである。この本を読むと、天理教に入信する以前は、中川よしはバタード・ウーマンであったことがわかる。

 しかし、彌吉(熊田註;輿志の夫)の真面目は長く続かなかった。翌年十一月一日、庫吉(熊田註;輿志の長男)が生まれると間もなく、夫は再び道楽が始まった。飲みに行く、女が出来る。金は湯水のように使ふ。およしさんは庫吉氏を背負つて、家の業である百姓から、家事一切を黙々と働き続けていつた。或る時は些細なことから折檻もされた。
  とうゝ最後の日が来た。請負仕事に損害を招いて、中川家は遂に屋敷田畑を残らず人手にわたすことになつた。これはおよしさんが嫁行つて三年目のことである。
  およしさんは生まれて三四年で、生家は産をなくし、嫁しては三年で裸となつた。そして愈々神(熊田註;原文旧字体)の引寄せの時期がきたのである(p.15)。

 中川よしの場合、その後自分がひたすら信心に打ち込むことによって、女道楽だった夫を感化して、最後は夫も布教師にしている。私は、中山みき・善兵衞の関係も、そういう「妻による感化型」の関係、妻に感化されて夫もゆっくりと回心していったという関係だったのではないか、と推測している(3)。少なくとも、池田の主張する「みきは善兵衞に家父長権の放棄を激しく迫っていた」という見解よりは、こちらの方が自然な見方に思われる。


5.天理教と日本の宗教学の共犯関係
 池田のように革命主義者だったと見るにせよ、私のように改良主義者だったと見るにせよ、天理教教祖が「雄松雌松にへだてなし」と主張する、男女平等思想の持ち主であったことは間違いない。しかし、薄井(1992)や金子(1995)が論じるように、1887年に教祖が逝去すると、教祖の男女平等思想は、近代の良妻賢母規範におされて、教団の中ではたちまち霞んでいった。
 本稿の冒頭に議論を戻す。島薗進の十分な実証的根拠に欠ける「強い父」仮説が宗教学会賞を受賞したのは、なぜだろうか。それは、「強い父」仮説が近代の良妻賢母規範と矛盾しない学説だったからであろう。天理教の女性教祖は、「生涯強かった父の面影を追っていた」という学説は、近代の家父長制を維持するのにも都合がよかったのではないか。宗教学会賞の審査にあたるような年配の男性研究者は、近代の男性中心主義を内面化してしまっている。逆に、中川よし夫婦の場合のような「妻に感化されての夫の回心」が教団および研究者に軽視されてきたのは、近代の良妻賢母規範が説く「夫唱婦随」の関係に反していたからではないか。
 その意味で、天理教と日本の宗教学は、男性中心主義という点で共犯関係を結んでいたと言えるだろう。


6.天理教と東大宗教学(1)
 この節では、島薗の「『強い父』仮説」が、東大宗教学の男性中心主義的な伝統の上に出てきたものであることを見る。
 天理教の二代目真柱(教主)・中山正善(1905-1967)に二度インタビュー取材したジャーナリストの青地晨は、『天理教―百三十年目の信仰革命』(弘文堂新社、1968年)で、第2次世界大戦後の中山正善による『復元』(教典編纂)の功罪について、以下のように述べている。

  だが「教典」や「教祖伝」は、中山正善の厳しい思想統制のもとに行われた。そのために中山みきが説いた素朴で土俗的な信仰は、あまりにも合理化さ れ、蒸留水のように味気ないものに変えられている。またそのために宗教的なパッションがうしなわれ修身教科書にも似た倫理道徳が教義として強く説か れているのである。
  すべての宗教は、人倫の道を説くものであろうが、それには自然の地下水のように、さまざまな夾雑物がとかしこまれている。そうした夾雑物のなか  に、人びとを信仰にかりたてる不思議なパッションがひそんでいると私は思う。こうした非理性的な夾雑物をとりのぞいた蒸留水には、信仰のエネルギー 源となる不可知なものに欠けるのではないか(p.289)。

 「弱きを助け、強きを挫く」「侠気」という「民衆的正義感の心のふるさと」(佐藤忠男,2004)も、中山正善が夾雑物としてとりのぞいてしまった教団初期の「信仰のエネルギー源」だったのだと思われる。中山正善は東大の宗教学科に学んだ人だから、やや挑発的な言い方をすれば、東大の宗教学が戦後の天理教を衰退させる一因となった、とも見ることもできるだろう。


7.天理教と東大宗教学(2)
 ここでは、同じ問題を、中山正善が東大文学部宗教学科在学中に師事した、東大の宗教学講座の初代教授・姉崎正治(1873-1949)の宗教観との関連にまで掘り下げて見てみる。姉崎は、天理教の「道徳の教理」を評価する一方で、「粗末なる美的感情」を批判していた。
 高橋原によれば、姉崎は、1898年に刊行された『比較宗教学』の中で、宗教的感情が「宗教的機能の暗中支配者」として知をして宗教的写像、宗教的世界観を結ばしめ、意志的行為を結実させる(『日本の宗教学 第一集 姉崎正治』第1巻、クレス出版、2002年、p37)、とする一方で、美であれ、性欲であれ、特定の要素が極端に亢進または減退すると、(知・情・意の)三者のバランスが崩れ、宗教が変態し、病態を呈することになる、としている(高橋,2002)。姉崎の枠組みによると、宗教は心理現象であるが、社会的現象として歴史に現れる中で発達していく。そして、まさにその社会との接点において病態を呈するのである。聖母崇拝、盆踊り、生殖器崇拝などが「症例」として言及され、天理教が「最も粗末なる美的感情に耽る者」と負の評価を受けている。
 しかし姉崎は、同じ1898年に発表された「宗教 明治三十年史」(『日本の宗教学 第一集 姉崎正治』第9巻、クレス出版、2002年所収)の中で、東大の哲学者・井上哲次郎(1856-1944)による「教育と宗教の衝突」論から5年目に当たるが、姉崎は岳父となったばかりの井上の論を肯定的に紹介したうえで、仏教界の対応を批判し、キリスト教の反省自覚を評価している。天理教の「道徳の教理」が評価されているが、「東北遊紀余録」での「正直」の評価とともに、最初期の天理教評価である。「天理教について」(1949)という最晩年の文章でも、教理と体験を兼ね備えたものとして天理教を高く評価している。姉崎は、1926年に天理教二代目真柱の中山正善が東大宗教学科に入学して以来、天理教と関係を深め、天理図書館建築に関わり、蔵書千数百冊も寄贈している。姉崎は、1947年に天理語学専門学校での講義中に倒れて以降、亡くなるまで熱海の中山の別荘で過ごしている。上述の「明治三十年史」以来、姉崎は概して天理教には好意的であった。
 このように、姉崎が天理教の「道徳の教理」を評価する一方で、「粗末なる美的感情」を批判していたことは、中山正善による教典編集に大きな影響を与えたように思われる。
 島薗の「『強い父』仮説」に見られるような男性中心主義的発想は、東大宗教学科初代教授・姉崎正治天理教二代目真柱・中山正善との共犯関係にまで遡って批判されなければならないだろう。


8.天理教教団とバックラッシュ
 天理教の機関誌『みちのとも』2008年6月号には、「今に生きる先人の言葉」として、なんと大正8年の「生まれつき男性は理性的、女性は感情的だから、相補いあって『夫婦そろって』布教するように」という文章が紹介されていた。教団内のバックラッシュ(=フェミニズム叩き)は激しいようである(4)。
 このように、教団内バックラッシュが激しい時代だからこそ、島薗の「『強い父』仮説」に見られるような、男性中心主義という点における宗教学と宗教界の共犯関係は、根本的に批判されなければならないのである。関口によれば、東京帝国大学哲学科教授・井上哲次郎は、「妻は夫に服従すべきである」とはっきりと主張していた(関口2007)。東京帝国大学宗教学科教授・姉崎正治は、井上に師事していた。上記のように、天理教の現行の教典を編集した天理教二代目真柱(=教主)・中山正善は、東京帝国大学で姉崎に師事していた。
 島薗ほどの優れた研究者ですら、日本の宗教学のこうした男性中心主義の伝統から完全には自由でなかったのではないか。


<謝辞>
 本稿を、草稿段階で東京大学島薗進氏、天理大学おやさと研究所の金子珠理氏、天理大学の池田士郎氏に読んでいただき、数々の貴重なアドヴァイスを賜った。記して深く感謝したい。


<註>
(1)金子は、論文「『女は台』再考」(1995)で、天理教の保守教学で「産み育てること」が女性の徳分とされていることに対して、「産むこと」と「育 てること」を分離し、前者だけを女性の徳分とすることを主張している。しかし、教祖・中山みきは、女性の出産については、「一つの骨折り」(『稿本 天理教教祖伝逸話篇』)としか表現しておらず、女性の徳分などとは言っていない。事実、みきが自分の後継者になることを期待していた節がある末娘の 「こかん(様)」は、独身だった。金子の保守教学に対する批判は中途半端なのではないだろうか。
(2)ただし私は、池田士郎が『中山みきと被差別民衆』(明石書店、1996年)で展開している「天理教教祖は全財産を貧しい人たちに施して、自ら被差別 に落ちきった」という見解は、間違っていると思う。中山みきが、被差別民衆と「へだてる心」なく交わっていたのは確かである。しかし、みきは、所有 していた広大な土地は手放していないし、「貧のどん底」時代でも、「乞食はささん」と明言し、最低限自活できるだけのものは残していた。だいたい、 「自分は被差別に落ちきることもできる」と考えること自体が、エリートの「こうまん」(「増上慢」)ではないだろうか。
(3)天理教の機関誌『みちのとも』2008年10月号に、夫の酒乱とDVに苦しむ女性信者に、心療内科医でもある男性信者が、「夫に感謝するように」と指導 し、信者が「夫にお金をもらっている」ことに感謝したら、夫が酒量をコントロールできるようになり、夫婦関係が改善されたという「おたすけ(?)」 の話が掲載されていた。これが、DVに苦しむ女性に対する宗教界の信仰指導の現実だろう。
  現在の天理教教団本部は、DV問題に関しては、公式見解としては、被害者を絶対に責めないように細心の注意を払いながら「諭し」を行い、努力を重ね たうえで、なお暴力がおさまらない場合は、親神にお詫びして離婚し、新しい歩みを始めるという決断をするように、としている(やまと文化会     議,2004;pp.18-19)。しかし、現実には上述のような、「妻による感化」に期待するような信仰指導も行われているようである。
  教団が『みちのとも』に掲載するということは、教団本部が「これで当然」と思っているということだろう。信田さよ子は、「コンビニの数ほどカウン セラーを」と主張するが(信田,2007)、天理教一教団の教会数だけでもセブン・イレブンの数より多く、お金の問題もあって(カウンセリングは、庶民 にはカネがかかりすぎるのである)、悩みを抱える庶民の大半は、宗教、特に新宗教(既成仏教だと、プライバシー漏洩の危険がある)に相談に行ってい ると思われる。
  DV被害者が告訴や離婚に踏み切れないのは、1.離婚しても生活していく経済力がない、2.結婚制度からはずれることが恐い(上野・信田,2004)、 という理由によるのだろう。 「妻感化型」になる場合は、夫婦二者間に閉じない志向性を有している点が大きいのではないだろうか。天理教の場合、教 会が疑似大家族になっているので、信者が「近代家族」ではない「オープン家族」(イラ姫・信田,2001)を作りやすいというメリットはあるように思わ れる。
(4)本気で信仰しているのかどうかはとにかく、反フェミニズムの色彩の強かった安部バックラッシュ内閣(「美しい国」における「近代家族」を称揚す る内閣)の閣僚には、天理教信者が6人いた。


<参考文献>
『稿本天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社、1976年
『みちのとも』天理教道友社、2008年6月号、10月号
池田士郎『中山みきと被差別民衆』明石書店、1996年
池田士郎『中山みきの足跡と群像―被差別民衆と天理教明石書店、2007年
上野千鶴子信田さよ子『結婚帝国−女の岐れ道』講談社、2004年
イラ姫信田さよ子『マンガ・子ども虐待出口あり』講談社、2001年
薄井篤子「新宗教と女性―天理教における女性救済を通じて―」宗教社会学研究会(編)『いま宗教をどうとらえるか』海鳴社
     1992年
金子珠理「『女は台』再考」奥田暁子(編著)『女性と宗教の近代史』三一書房、1995年
佐藤忠男長谷川伸論ー義理人情とは何か』岩波現代文庫、2004年
島薗進「神がかりから救けまで」『駒沢大学仏教学部論集』8号、1977年
島薗進中山みきと差別・解放―疑いと信仰の間・後記―」池田士郎・島薗進・関一敏『中山みき・救いと解放の歩み―その生涯と
   思想』明石書店、1998年
関口すみ子『国民道徳とジェンダー福沢諭吉井上哲次郎和辻哲郎東京大学出版会、2007年
高橋原「姉崎正治集 解説」『日本の宗教学 第一集 姉崎正治』第9巻、クレス出版、2002年
高橋兵輔『中川輿志』天理教道友社、1949年
天理やまと文化会議(編)『道と社会―現代“事情”を思案する』天理教道友社、2004年
信田さよ子『カウンセリングに何ができるか』大月書店、2007年