治療文化としての「淫祠教」的救済行為

<渡辺順一「救いの場のジェンダーとセクシュアリテイ−非対称的な親密性の発生をめぐって−」『宗教と社会』学会第17回大会発表レジュメ、2009年より引用>

戦前期、金光教のスタンダードな教会の信徒数は、数百人〜数千人規模だった。明治10年代から始まる大都市圏(近畿、関東など)への布教は、花街を中心に展開されたが、マスコミから「淫祠教」として非難されたその頃の教団風景の中では、取次による救いとセクシュアルなレベルでの親密性の発生は、時として連動することもあったのではないかと思う。
(中略)
・敗戦まで、全国の教会では、次のような救いの行為が盛んに行われていた。
 ・お土を患部に塗る。
 ・お神酒を患部に吹く。
 ・取次者が病人と一緒に入浴する。
 →問題は、これらの「淫祠教」的救済行為が、「言葉」を取次ぐ現在の「結界取次」とどうリンクしているのか、ということである。


 「宗教と社会」学会で渡辺順一さん(金光教羽曳野教会)のこのような発表を聞いて、「そういえば精神科医中井久夫さんが精神科医と売春婦の比較をしていたな」と思い出し、大学の研究室から古典的名著「治療文化論ー精神医学的再構築の試み」(岩波同時代ライブラリー、1990年、初出1983年)を持ち帰り、久しぶりに繙いてみました。


 イエスの治療行為一般について、私は何とも申し上げられないが、「足を洗うこと」と「ひとびとの試みにあいつつ土に字を書く」「手をふれる」この 三つには、普通あまり考えられていない意味があるのではないかと思う。
 足は、きわめて鋭敏なセンサーである。(中略)
 では、地面に字を書くことはー。
 これは、問いかけに対決するのでもなく、屈従するのでもない第三の姿勢である。聴くという態度を端的に示しつつ、問いかける者をおのずと再考と鎮静に導く行為でありうる。(中略)
 最後に、「手をふれること」については、少なくとも私の場合、しばしば相手の脈に私の脈があってしまう。(中略)
 「手かざし」にしてもー。てのひらのすぐ下の身体に何か防衛的な反応が起こっても不思議ではないだろう(中井,1990;pp189-194)。


(熊田註;「傭兵」に加えて)もうひとつの、私にしっくりする精神科医療は、売春婦と重なる。
 そもそも、一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にはざらにあろうとは思えない。
 (中略)
 職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousな人にすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物を見ることがある。)
 しかし、一方で売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわない存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。
 以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う(同上;pp197-198)。


 深く考え込ませる文章です。