天理教教祖と暴力

 今年(熊田註;1998年)は天理教の教祖中山みきの誕生二百年にあたる。教祖は寛政一〇(一七九八)年四月一八日に、大和の国山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋をつとめる前川半七・きぬ夫婦の長女として生まれた。
 教祖の誕生した寛政年間は、いわゆる寛政の改革が行われた時代である。天明の大飢饉とその後の物価騰貴で幕府や諸藩の財政は疲弊しだし、商業資本の成長は農民の土地放棄に拍車をかけ、幕藩支配体制の危機をもたらした。そこで幕府は、極端な緊縮政策に基づく幕藩体制の建て直しを図ろうとしたが、財政基盤の弱い諸藩は倹約と年貢の取り立てぐらいではとても財政再建など望むべくもなかつた。逆に厳しい倹約は人々の不満をつのらせ、各地で一揆や打ち壊しという騒動が頻発するようになった。教祖が誕生する二年前の寛政八年には、西三昧田と同じ津の藤堂藩領の伊勢一志郡で三万人の農民が一斉蜂起するという騒動が起こっている。また、誕生翌年の寛政一一年には、旗本山口官兵衛所領の農民たちが三昧田から一里も離れていない岩室村の源兵衛方を襲って打ち壊しをするという大騒ぎが起こっている。こうした農民騒動の噂は三昧田をはじめ近在の村々でも人々の話のたねになったにちがいない。わけても、父半七は後に藤堂藩より無足人に列せられ苗字帯刀を許されているが、同時に目付庄屋を兼ねていたようでもあり、農民騒擾には特に敏感であったと思われる。ともあれ、教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない(池田士郎「まえがき」池田・島薗・関(編)『中山みき その生涯と思想―救いと解放の歩み』明石書店、1998年、p5)。


*「教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない」ことは、生育期の多感なみきにいや応なく<暴力>の問題を真剣に考えさせたことでしょう。