天理教教祖と「民衆の暴力」

 天理教の教祖中山みきの生きた時代は幕末から明治維新にかけての動乱の時代である。特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった。教祖の周辺の大和においても、文久三(一八六三)年の八月に公卿の中山忠光を擁した天誅組が五条の幕府代官所を襲撃し倒幕を目指す内戦の口火を切った。翌年の元治元(一八六四)年五月五日には、教祖の生家がある三昧田村で幕府の間諜とみなされた絵師の冷泉為恭が長州浪人の手によって暗殺されている。
 こうした体制変革の担い手は公家や武士といった特定の階級だけではなく、特に幕末期には一揆や打ち壊しという形で庶民階層にまで広がっていった。ある研究者の統計によれば、一揆の発生件数は「慶応三か年に限れば年平均は四四・三件となり、江戸時代最大」となっている。それにつれて、都市の打ち壊し件数も相当数に上ったであろう。じっさい、大和の町々でも強訴や打ち壊しが頻繁に発生していたことを地方文書は伝えている。
 このような時代状況のなかで、教祖の最初の体系的な教えが「つとめ」の地歌である『みかぐらうた』として展開された。「陽気ぐらし」を教える教祖は、暴力と流言の横行する騒然とした世情のなかで「こ々はこのよのごくらくや」と宣言し、不安におびえていた多くの民衆に不思議な心の安らぎを与えた。そして、平安を希求する人々の願望に一つの道筋をつけるための方法として「つとめ」を教えはじめた。時に慶応三(一八六七)年。江戸幕府が音を立てて崩れ落ちる年のことであった。この年には、教祖の膝元といってもよい街道沿いの宿場町である丹波市村でも打ち壊しが起こっている(池田士郎『中山みきの足跡と群像ー被差別民衆と天理教ー』明石書店、2007年、pp.100-101)。


*「特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった」からこそ、教祖は男性たちと「力比べ」をして「神の方には倍の力」と説いて、暴力に訴えることなく「神にもたれて通る」ことを教え諭す必要があったのであろう。
 しかし、私は池田の次の見解には賛成しない。


 教祖が「むほんづとめ」(平和を祈る歌と踊り)を教えた頃(熊田註;明治八(一八七五)年)、日本では明治維新という近代革命後の政権のあり方をめぐって旧士族の反乱が相次いでいた。明治七(一八七四)年には佐賀の乱、九年には熊本の神風連の乱や長州の萩の乱、一〇年には西南戦争が起こっている。こうした内乱は地方軍閥武装蜂起という形をとっているが、根本的には、教祖が「高山」と呼ぶ権力者階層の覇権争いにほかならず、民衆はその犠牲者あった(同上、pp.105-106)。


*ここで池田は、「民衆は権力者の一方的な被害者であった」という旧左翼的な民衆観に囚われているように思われる。池田に欠けているのは、「<暴力>の主体としての民衆」という視点である。教祖が「むほん(謀反)」という時、もちろん「高山」(権力者)の暴力も念頭に置かれていたが、同時に教祖は江戸時代なら「一揆・打ち壊し」、明治時代なら「農民騒擾」という形で現れるような、「谷底」(民衆)の暴力も念頭に置いていたと思う。事実、教祖存命中の明治一五年から一八年ころにかけて、明治一四年に始まる「松方デフレ政策」で窮乏した各地の農村で農民の騒擾事件が続発している(長谷川昇博徒と自由民権ー名古屋事件始末記ー』中公新書、1977年)。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで(村上註・人間のしていることが、その人の真実からのこととは見うけられないので) そこで何(と)の様(よ)なこともするのや
如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(村上註;力の強い者)たるも若(はか)き(村上註;若く元気な者)ても これを頼(たよ)り(村上註;頼りにできる)と更(さら)に思(をも)ふな
この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから
中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p151)


 天理教の原典『おふでさき』のこの部分は、明治10年(1877年)に書かれた、『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。この暴力否定の「おふでさき」が、次の「おふでさき」とおなじ13号で同日に書かれていることは、<暴力>の問題は、「高山」(権力者)だけの問題ではなく、「谷底」(民衆)の問題でもあると教祖が考えていたことを示している。


この話(話)何処(とこ)の事とも言(ゆ)わんでな 高山にても谷底(たにそこ)までも(村上註;「民衆の側でもよく聞いておかねばならない」)(中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p153)


 明治14年から大蔵卿松方正義の手によって始められる不換紙幣の整理は、世に“松方デフレ政策”といわれるように、極端な低米価政策と増税によって、明治七年から十年にいたる一連の西南動乱の軍事費調達のために発行された 膨大な不換紙幣を一気に消却しようとする強硬策であった。
 この政策の煽りをまともにうけた農民層の社会変動は深刻であった。明治十六、七年には米価はそれまでの半分以下に低落し、他の農産物の価格も大幅に値下がりした。しかも是と併行して地方税が増加したため、税金は実質的にはそれまでの三倍ぐらいの重さで農民の肩にのしかかった。官憲は容赦なく税金不納の農民のわずかな所持品をどんどん公売に付した。農民の多くは先祖伝来の零細な土地を手放さなければ税金も払えず、生きてゆくこともできないという深刻な状態が全国の農村を巻きこんでいった。明治十七年を頂点とする数年間のこの不況の波は、農民層に大きな階層的変動を与え、自作農は土地を失って大量に小作農に転落し、小作農はますます貧窮化して賃労働者化してゆく。そして一方には、貸金を代償にこれらの土地を集積する寄生地主(所有地をもっぱら小作人に工作させる地主)が発生していった。
 こうした情勢を背景として、明治十五年から十八年ころにかけて、全国的に農民の騒擾事件が続発してゆく。とくに東山養蚕地帯に属する福島・群馬・埼玉・長野・山崎・静岡・岐阜などの各県では、負債の返済を求める集団行動や、それが激発して高利貸を襲撃して借金証文を破棄するような直接行動が、困民党・借金党などの名称を名のる集団を主体にして行われていく。
 自由民権運動の激化事件といわれる福島・群馬・秩父・飯田・静岡などの諸事件は、「自由党実行派」の企画する革命方式が、これらの農民騒擾とさまざまな形で連関しつつ、同じ地域で同じ基盤の上に起こってくるのである(同上、pp.146-147)。