天理教教祖の「力比べ」をめぐってー女性の侠気ー

 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。


 教祖様がきかせられましたが、
『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田註;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田註;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社、1970年、p259)


 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。天理大学の池田士郎氏は、この記述を教祖についての「正伝」と考えている(私信による)。しかし、教祖は直筆の原典(熊田註;天理教聖典)『おふでさき』で、次のように信者が暴力に訴えることをきっぱりと否定している。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや
如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな
この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから
中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p151)


 天理教の原典『おふでさき』のこの部分は、明治15年(1882年)に書かれた、『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。この暴力否定の発言から、私は正文遺韻抄の上の記述が「正伝」であるという池田士郎氏の見解に賛成しない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が多額の献金するのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。また、原典『おふでさき』で、教祖が信者に対して、


如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな


と厳しく言わなければならなかったということは、当時、放置しておくと暴力に訴えかねない「血の気の多い」信者も多数いたからこそであろう。


 天理教教祖が明治15年(1882年)に、「あまり真実(しんぢつ)見(み)かねる」と書いたのは、直接的には、明治14年1881年)に始まった“松方デフレ政策”がもたらした社会的混乱を念頭に置いていたのであろう。


 明治十四年から大蔵卿松方正義の手によって始められる不換紙幣の整理は、世に“松方デフレ政策”といわれるように、極端な低米価政策と増税によって、明治七年から十年にいたる一連の西南動乱の軍事費調達のために発行された膨大な不換紙幣を一気に消却しようとする強攻策であった。
 この政策の煽りをまともにうけた農民層の社会的変動は深刻であった。(中略)明治十七年を頂点とする数年間のこの不況の波は、農民層に大きな社会的変動を与え、自作農は土地を失って大量に小作農に転落し、小作農はますます貧窮化して賃労働者化してゆく。そして一方には、貸金を代償にこれらの土地を集積する寄生地主(所有地をもっぱら小作人に耕作させる地主)が発生していった。
 こうした情勢を背景として、明治十五年から十八年ころにかけて全国的に農民の騒擾(そうじょう)事件が続発してゆく。とくに東山養蚕地帯に属する福島・群馬・埼玉・長野・山梨・静岡・岐阜などの各県では、負債の返還を求める集団行動や、それが激発して高利貸を襲撃して借金証文を破棄するような直接行動が、困民党・借金党などの名称を名のる集団を主体にして行われていく。
 自由民権運動の激化事件といわれる福島・群馬・秩父・飯田・静岡などの諸事件は、「自由党実行派」の企画する革命方式が、これらの農民騒擾とさまざまな形で関連しつつ、同じ地域で同じ基盤の上に起こってくるのである(長谷川昇博徒と自由民権ー名古屋事件始末記ー』中公新書、1977年、pp.146-147)。


 天理教教祖が明治15年(1882年)に、原典『おふでさき』で信者が暴力に訴えることを厳しく戒めたのは、“松方デフレ政策”がもたらした社会的混乱の中で、困窮しても「農民騒擾」に走らないように、という意図があったのだろう。


 『おふでさき』や『正文遺韻抄』は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(教団用語では「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。天理教教祖が男性信者たちと「力比べ」を行って、簡単に負かしては「神の方には倍の力」と説き続けていたことの狙いの少なくともひとつは、宗教運動が暴動へと転化することを防ぐことにあったことがわかる。
 諸井政一自身は、教祖に一度も会っていない。『正文遺韻抄』の「ごろつきもの」礼賛は、教祖の何かの発言と、明治時代に全盛期を迎えた講談芸の「侠客もの」が混線した伝承だと思われる。このような「義賊もの」は大正時代の大衆文芸ではもう消滅している。足立によれば、大正時代の大衆文芸を代表し、昭和の大衆文芸の母体ともなった「立川(たつかわ)文庫」には、江戸末期から明治にかけて全盛期を迎えた「講談」芸のなかの「侠客もの・義賊もの・女賊もの」が全く見られない(足立巻一立川文庫の英雄たち』中公文庫、1987年)。池田士郎氏がこの部分を教祖についての「正伝」とみなしているのは、池田氏自身がいささか「血の気の多い」正義漢だからではないか。


 また、次のような逸話は、天理教教祖が権力者に頼る「上からの」運動を避けていたことをよく示している。


二八 道は下から
 山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖(おやさま)に「道も高山(熊田註;社会的地位の高い者)につけば、一段と結構になりましょう。」と申し上げた。すると教祖は、
 「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう。」
と、お説き聞かせになった(『稿本・天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社、1976年、pp.46-47)。


 この逸話の出典は、『正文遺韻抄』の次の伝承だと思われる。


 道は下から
 山中忠七様、或時、御前に侍りてあるける時、くさ〱゛の話の序に、『このお道も、上つ方へ神様入込で御はたらき被下ば、はやく御盛大に相成らんものを』と云いけるに、
 教祖様、仰せらるゝには
『上から道をつけては、下のものがよりつけるか。下から道をつければ、下のものも上のものも皆つきよいであろ』と。又
『高い所より、下を流るゝ水を見よ。なんぼさがつても、下がつただけはふきあがるやろ』と、御聞かせ被下たりと。教祖様の御身、今は深き所におはしませ共、御魂の理を承り侍れば、此道は水のふき上げるが如く、やがて、高きに及ぶ事、必定ならんと仰せかと、いと〱難有りかしこみしとなん(同上、pp.145-146)。


 こうした逸話は、天理教教祖の「強きに暴力をふるいはしないが、まず弱きを扶ける」という、「強きを挫き、弱きを扶く」男性の侠気とは異なる、「女性の侠気」をよく示している。