「民衆」宗教のカネと暴力

 日本の新宗教研究の第一人者である島薗進新宗教研究を、「センチメンタル宗教学(「おかわいそうに」宗教学とでも訳すのだろうか)と批判したのは、宗教ジャーナリストの藤田床市である(口頭による)。私は島薗の宗教研究に絶大な敬意を払うものだが、藤田の批判は一理あると思う。

 島薗、というよりも一般に日本の新宗教研究の基礎を創った団塊の世代新宗教研究には、カネや暴力のようなきれい事ではすまない分野は「パス」する傾向があったと思う。それは、カネや暴力が新宗教教団にとってデリケートな問題であり、研究者にとって実証データの収集が困難であり、また新宗教研究を学問として前進させるために、教団が嫌がるような問題は意図的に避けてきた、という理由によるのだろう。

 しかし、現実の新宗教教団は、暴力渦巻く社会環境のなかで、大金を集めることによって出発したのである。この章では、天理教教祖がカネと暴力の問題にいかに対処していたかを分析する。

 一般に団塊左翼の知識人は、暴力の問題を正面から扱うことが苦手であるように見える。そのことは、あの世代のトラウマである連合赤軍事件を彼らが十分に総括できていないことと深く関係しているように思われる。団塊左翼には、「<民衆>は横暴な権力者たちの一方的な犠牲者であった」という発想が根強く、「暴力の主体としての民衆」という視点が弱いのである。藤野裕子『民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代-』(中公新書、2020年)は、「暴力の主体としての民衆」を正面から取り上げた優れた研究である。しかし、藤野の研究はドメスティック・バイオレンスの問題は取り上げていない。本章では、天理教教祖のDV問題に対するスタンスも取り上げる。

 団塊左翼の知識人には、暴力を論じる際には「平和vs.暴力」という二分法に依拠する傾向があると思う。しかし、問題は「暴力をなくすこと」ではなく(そんなことは不可能である)、「暴力を減らすこと」にあるのではないか。換言すれば、「平和vs.暴力」という二分法を離れ、「暴力の制御可能性を増していくこと」、いわば「暴力のアート(術)」を洗練させていくことにあるのではないか。私には、天理教教祖の「力比べ」は、そういう意味での「暴力のアート」でもあったように思えるのである。

 

「天理教教祖と<暴力>の問題系」を再論する - 熊田一雄の日記