天理教教祖の「力比べ」について

1.天理教教祖の「力比べ」
 少なくとも老境に達してからの明治時代の中山みきは、自分のもとを訪れた男性たちに、「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。「稿本・天理教祖伝逸話篇」に、同じような話が複数記録されているのはこの「力比べ」の逸話だけであることから考えて、老境に達した明治期には、みきは自分のもとを訪れる男性に頻繁に「力比べ」を持ちかけていたのだろう。天理教の原典(教典)である「おふでさき」の、みきが77才となった明治7年に書かれた部分である第3号第84首でもこう説かれている。教団外部の自然科学者なら、男性たちはみきのカリスマ性を前にして暗示にかかったのだ、と説明するだろう。
 天理教教団は、他のいかにも宗教家らしい逸話とはやや異質なこうした「力比べ」の逸話に、「教祖はみずからが月日のやしろに坐しますことを示されたのである」と特別にコメントを加えている(「稿本・天理教教祖伝逸話篇」)。しかし、自分が生き神であることを示す方法なら他にいくらでもあったはずで、事実、「病気治し」を代表として、そうした逸話は数多く残されている。天理教団のコメントは、説明になっていない。みきは、男性信者たちの暴力を制御する可能性を、親神(天理王命)に対する信仰に基づいて高めようとしたのではないだろうか。
 みきは力だめしをした多くの人々の中で、梅谷四郎兵衛に自分の「空白の3年間」について、次のような詳しい話をしている。「正文遺韻抄」はあくまで教祖についての「伝承」を記録した本であるが、この部分は、伝聞先が明記されているので、史料としての信憑性が高い。

  この道の最初、かかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通 りにしようと思へば、夫をはじめ、人々にせめられて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死 ぬ方がましやと思ふた日も有ったで。よる、夜中にそっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事  は、三度まで有ったがな、井戸側へすくっと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきか ず、身体はしゃくばった様になって、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、声がきこ える。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどにゝ、年のよるのを、まちかねるゝ、かへ  れゝ」と仰有る。(諸井1970、p139)

 「正文遺韻抄」では「年のよるのを、まちかねる」を「一つには、四十台や、五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことは出来んが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年のよるのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」、「八十すぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよと仰有る」(同上、p140-p141)と説明している。
 しかし、みきの「力だめし」の目的はそれだけだったのだろうか。天保の飢饉の時代から、全国の百姓一揆は「世直し大明神」を掲げることが増えた。大塩平八郎も、世直し大明神のひとりとして位置づけられた(酒井一、1998)。それに続く「世直し」という時代の風潮や、明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、「生き神」の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する「対抗暴力」の運動(みきの言葉では「むほん」)の指導者を期待する「血気盛んな」男性も少なくなかったのではないか。そうした男性たちに、「力比べ」を持ちかけて簡単に負かして「神の方には倍の力」と説くことによって、みきは、「暴力に訴えることの空しさ」を暗にさとし、「力任せ」の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか。
2.教団初期の雰囲気
 例えば、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843-1907)は、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた「やくざ」の大親分であった。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920年大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団の初期の雰囲気が、迫力をもって描かれている。
 やくざ時代の平野楢蔵の悪行についても、「こんな(熊田註;喧嘩の)場合に幾人の人命が彼の不当な欲望の犠牲になって居るかわからない。」(同上、 p9)と正直に書かれている。「重い神経病」(幻覚と幻聴)を経て、「ない命を助けられ」やくざ稼業からきれいに足を洗い信心に打ち込むようになってからも、平野楢蔵は暴力と全く無縁になった訳ではなかった。教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には、平野楢蔵は対抗暴力に訴え、みきに「このものゝ度胸を見せたのやで」「明日からは屋敷の常詰とする」(同上、p59)と、教祖の護衛に任命されている。こうした対抗暴力については、次のように説明されている。

  これ等の出来事に現れた平野会長の行動を只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あ るいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめ た会長の心情に漲る「道思ふ」てふ精神、「我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり」てふ精 神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか。(同上、p80)

 初期の天理教教団には、「人々は今更ながらに天理王命に敵たうた不心得者の悲惨な末路に『いかほどの がうてき(熊田註;「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ かみのほうには ばいのちからや』(熊田註;教祖が書き残した原典「おふでさき」の一節)と口ずさんだ。」(同上、p74-p75)という雰囲気があったようである。
 また、諸井政一(1876-1903)が、教祖についての伝承を明治時代に記録した「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。

  教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものが あるやろ。一寸きいたら、わるもの々やうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有 る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅうが助 かるやろ。そやつて、身上もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井197 0、p259)

 現在の天理教教団は、「正文遺韻抄」は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。
 「道すがら」や「正文遺韻抄」の記述は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。