天理教教祖の改良主義

五七 男の子は、父親付きで
 明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子ども二、三名と、村の西側を流れる佐保川に川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと大層腫れてきた。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種々と手をつくしたが、一向効しは見えなかった。
 その頃、同村の喜多次郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、すでに熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心かであったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心するものを笑っていたくらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝いをやめるか、信心するか、どちらかにしてもらいたい。」とまでいったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。
 そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ご覧いただくと、教祖は、
  「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のならが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしくご守護をいただけない。
 明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、
「『男の子は父親付きで。』とお聞かせくださる。一度、惣五郎さんが連れて参りなされ。」と言ってくれた。それで、家に戻ってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ。」と言った。
 それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっかり全快のご守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様のご守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった(「稿本・天理教教祖伝逸話編」天理教道友社、1976年、pp98-100)。

 この逸話から、天理教教祖が、1.男性(父ー息子のライン)が家の「しん」であることは認めていた、2.しかし、同時にその「しん」を変えなければならないと考えていた、ということがわかります。天理教教祖は、男女平等に関しては確かに革命主義者ではなかったが、改良主義者だったのでしょう。