天理教教祖と<暴力>の問題系

愛知学院大学文学部紀要37号論文(2008年)より転載

<題名>天理教教祖と<暴力>の問題系
<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)
<要旨>
 この論文の目的は、日本の初期新宗教である天理教の女性教祖である中山みき1798年-1887年)の男性信者に対する信仰指導を再検討することにある。老境に達した中山みきは、自分のもとを訪れる男性たちに対して、しばしば「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては「神の方には倍の力」と説いて聴かせていた。中山みきは、「世直し」という当時の時代風潮の中で、国家に対する対抗暴力(「謀反」)や妻に対するドメスティック・バイオレンスのような男性信者による暴力を制御する(「手綱をさばく」)可能性を、親神に対する信仰に基づいて高めようとした実践した無抵抗・不服従の宗教家であった。

<キーワード>宗教と男性性/暴力の問題/天理教教祖/「力比べ」の逸話/無抵抗・不服従


1.はじめに―宗教と暴力を再考する

 近年、人類は宗教と暴力の関係について根本的に再考することを迫られている。1991年の東西冷戦終結後に、民族紛争・宗教紛争が世界中で噴出してきた。1995年には、富と情報を蓄積した「豊かな」社会である日本でも、オウム真理教によって世界を震撼させる無差別テロ事件が引き起こされた。他の先進国でも、さまざまな問題教団(マスメディアの言う「カルト」)の問題がクローズアップされた。そして、2001年の9・11テロと、それに引き続くアフガン戦争・イラク戦争は、地球人類全体に、テロがいつどう飛び火してくるかわからない、という「世界内戦」とでも呼びたい政治状況をもたらした。
 いったいどうして、人間を救済するはずの宗教が、逆に人間同士の「暴力増幅装置」となるのだろうか。これは、グローバル化状況の中で、宗教が政治・経済の対立に巻き込まれた結果の、宗教の本来の姿からすれば「逸脱」した現象にすぎないのだろうか。それとも、そもそも宗教が「同胞倫理」を掲げて「信仰仲間」と「そうでない者(異教徒)」を区別する以上、暴力は宗教から不可避的に生じてくる逆説的な結果なのだろうか。いずれにせよ、われわれは、宗教と暴力の関係について、根本的に再考する必要に迫られている。
 宗教と暴力の関係を再考するに際しては、暴力をどのように定義するかが極めて重要な問題となる。暴力概念の再検討は、近年社会哲学の領域で盛んに研究されている(ex.酒井2004)。社会哲学が「国家とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」という社会学者、マックス・ウェーバーの古典的議論を再評価し始めたのは、先進諸国が新自由主義的改革を推進し、「富を再配分する」という国家による福祉の機能が弱体化して、日本社会が格差社会となったからであろう。
 しかし、こうした政治哲学における暴力論では、宗教との関わりが軽視される傾向がある。また、近年フェミニズムジェンダー研究の領域でも、ドメスティック・バイオレンスをはじめとする「女性に対する暴力」に対する意識が高まるにつれて、たとえば夫や恋人によるドメスティック・バイオレンスを解決するために警察に頼ることが、結果的に警察という国家権力の肥大化を招いてしまうという逆説が意識され始めている。暴力を解決するためにより上位の審級にある暴力に頼る、というだけでは、この逆説は永遠に解決されず、軍隊や警察といった国家権力、将来的にはひょっとすると国連軍や国際刑事機構という国連的権力が肥大化した「ウルトラ監視社会」を招くだけである。
 マルクスが提唱した暴力革命論も、ベンヤミンのいう「神話的暴力」(法を措定するための暴力)の一種にすぎず、この逆説は解決できない。上野千鶴子氏が最近提唱している「生き延びるための思想」も、単に上野氏が若い頃かぶれたマルクス主義の暴力革命論を裏返しにしただけで、この逆説を解決できはしない(上野2006)。萱野稔人が提唱しているように、「暴力のアート(術)」、つまり暴力の制御可能性を生活上のさまざまな問題とリンクさせて高めていくような方向性が必要である(萱野・酒井2006)。「暴力のアート」という表現は、非常に抽象度が高く、個人の護身術から軍隊の文民統制に至るまで、とても広い範囲の現象を内包する概念である。しかし、「暴力の問題系」を分析するための問題提起的な概念としては有意義である。
 この論文は、こうした近年の政治哲学における暴力論の新たな展開を踏まえて、日本の初期新宗教である天理教の女性教祖の言行禄、特に男性信者に対する信仰指導に、宗教と「暴力の問題系」という角度から新たな光をあてようと試みるものである。

2.天理教とは

 「天理教教典」「改訂・天理教事典」および「フリー百科事典」(Wikipedia)によれば、天理教(てんりきょう)は、江戸時代 (幕末から明治にかけて)に日本で発祥した新宗教のひとつ。歴史にもまれつつ、すでに一定の社会的評価がなされた新宗教とみてよい。教団の概要は、以下の通りである(1)。
 1838年天保9年)10月26日に阿弥陀信仰深く、慈悲深い生活をしていた 「教祖(おやさま)」こと中山みきに「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降り、月日の社となって、元の神・実の神の布教を創始したとされている。
 神髄は、たすけ一条で、神の道具衆として、真実の意味において人を救う心を起こせば、親神の御心と導通を起こし、それによって霊的心身一如の成熟を得るので、真実の意味において自らもたすけられるというもので、「だめの教え」といわれる。(だめ、とは駄目押しのだめであり、「最後の教え」との意味である。)
 教義の基礎とされる聖典は、1711首の和歌体で書かれた「おふでさき」、つとめの地歌としての「みかぐらうた」、そして折々の伺いに対して下された「おさしづ」の3種類の啓示書であり、原典とよんでいる。
親神によって実現されるべき救済の理想は、神が人間創造にかけた目的の成就ともいうべき陽気ぐらしと説き、それはすべての人間が神一条、助け一条で、相たずさえて喜びの日々を生きることによって成るとする。
八つのほこり(をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん)や、身体は借り物の教えは初心にも比較的分かりやすいものとなっている。日々の生活の指針から、スポーツなどでの精神力涵養、経営理念、政治哲学にいたるまで、幅広い層への影響力をいまだに保持しつづけているとみてよいとおもわれる。
 月日・親神・天理王命の守護と恵みにより、人間は生かされおり、陽気ぐらしを享受することができる。そのことに感謝を捧げ、報恩の行いとして人間は、親神の恵みである天然自然を活かし、親神からの借り物であるそれぞれの身体を、陽気ぐらしのために惜しまず使っていくことが大切とされる。また、すべての人間関係は、夫婦関係を基本として培う事が理想であるとされる。
「ひのきしん」は一般的に知られた天理教の言葉であるが、これは親神の守護に感謝し、その報恩の行いすべてをいう。信者は、「さづけ」といわれる救済の手段により、病む人をたすけ、さらに「つとめ」(てんりおうのつとめ)という祈りを通して、親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを願う。
 奈良県天理市にある「ぢば」(かんろだい)において人類が創造されたと考え、現在この地に教会本部を置いている。また今でもここで教祖(おやさま)は存命で、 日々お働きになっているとされる。日本では唯一、宗教が市名に成っている宗教都市である。
 なお、戦前は政府の弾圧により教派神道神道十三派の一つ)を名乗る必要があった。1970年(昭和45年)に教団自身が教派神道ではないと宣言し新宗教諸派に分類されたが、現在でも神道色が濃い。近年、カトリック教会との対話も始まっているようである。
 天理教聖典は以下の通りである。天理教の原典(天理教では聖典ではなく「原典」と言う)は、「おふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」の3つがあり、「三原典」と呼ばれて天理教教義の基礎となる。
「三原典」については、*「おふでさき」は教祖直筆で、現存する。*「みかぐらうた」も教祖によって書かれたものであるが、原本が見つかっていない *「おさしづ」は教祖、または飯降伊蔵(本席と呼ばれ、教祖の高弟の一人)の口を通して、神の指図を側にいた書取人が速記したもの(その為、同音異義語の問題がある)。
 これにより、三原典を呼ぶ順番は「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」となっている。(原典に甲乙があるわけではない)またこれにより、教内で使われる言葉の字句は「おふでさき」を元に判断される。例としては、天理教では布教活動の事を「にをいがけ」と言うが、「おふでさき」には「にをいがけ」と書かれ、「みかぐらうた」には「にほいかけ」と書かれており、「おふでさき」の優位性により、「にをいがけ」となる。
 教祖には神が入り込んでいたと考えられており、また本席・飯降伊蔵は「言上の許し」と言われる神の言葉を取り次ぐ許しが与えられていた。その為、三原典は全て「神意をあらわしているもの」であり、「人間の考えが混じっていない」、と考えられている点で、天理教内の他の書物とは全く異なるものであると考えられている。

3.大塩平八郎の乱天理教教祖

 島薗は、1838年の最初の神がかりをもって中山みきは突然教祖(「神の社」)となった、とする天理教教団の「突発説」を斥け、中山みきは最初の神がかりをきっかけとして徐々に独自の教えを説く宗教家になったのだ、といういわば「過程説」の立場をとる。そして特に、最初の神がかりから中山みきが人々に教えを説くまでの「空白の3年間」に注目する(島薗1998)。それまで、庄屋で豪農であった中山家の「模範的な嫁」であったみきは、最初の神がかりから約3年間、「嫁の仕事」を一切放棄して、「内蔵」にひとり引きこもり、なにやらぶつぶつと神との孤独な問答を続けていた。私は、島薗の「過程説」にも、みきの宗教家としての自立までの「空白の3年間」の重要性を主張する点にも賛成する。みきは、自分が抱える様々な深い葛藤を解決するために、3年間の神との問答を必要としたのであろう。
 しかし、空白の3年間に中山みきが抱え込んでいた葛藤の内容については、私は島薗と少し違う見方をしている。みきが最初に神がかりしてから(1838年)教えを説き出すまでの「内蔵」における「引きこもり」の3年間は、みきが、「神がいるならばなぜ長男・秀司の身体障害を救けないのか?」という神義論的問いに回答を出すまでの内的葛藤の期間であった、というのが島薗のみき理解の基本であるが、みきの内的葛藤がそれだけだったのかは、疑問である(島薗、同上)。当時の中上流階級の「家」にとって養子をとることくらい当たり前で、ましてやみきには娘たちがいたのだから(当時長女のおまさはすでに14歳になっていた)、婿養子をとりさえすれば、中山家の安泰は簡単にはかれたはずである。長男・秀司の身体障害が「みきの信仰に突き刺さった棘」だったのは確かだろうが、そのことだけで3年間も悩んだとは思ない。「夫の善兵衛が50歳を超えた今、善兵衛を除いて唯一の男手であった秀司が思うように田畑の仕事もできないということは、中山家の農業労働に致命的な打撃を与えただろう。」とは考えられない。また、みきは、長男の身体障害に「神が世に出られない残念の手引き」という神義論的な説明をつけた(池田2007)。仏教的な「因縁論」と異質なそうした説明をつけるのに3年間も必要だったとは思えない。
 島薗ですら、「女性=母性」という近代的なジェンダー・バイアスから完全には自由ではなかったのではないだろうか。近世末期のみきを、近代的な「母性」というモノサシで論じることは、ナンセンスである。日本社会に「母性」という言葉が出現したのは1890年代のことであり、一般大衆にこの言葉が普及したのは大正時代である。
 みきには、「疑似非暴力状態」ではない「真の平和」を夢見た一種の女傑、「女頭目」(赤松1986)とでも呼びたい女性という側面があったように思われる(2)。1838年に最初の神がかりをしてからのみきの「引きこもり」の3年間は、1837年の「大塩平八郎の乱」の影響を受けて、みきが、「宗教と真の非暴力」とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあったのではないかと思う。「引きこもり」の3年間において、みきは、日本的な宗教文化の伝統に基づいて、「宗教と真の非暴力」について集中的に考え抜いたのだと思う。そして、教えを説き始めてからも、同じ問題を考え続けたのだと思う。
 数百万人の餓死者を出した「天保の飢饉」のさなかに大阪で起きた大塩平八郎の乱は、百姓ではなく幕府の側の役人が反乱(みきの言葉では「むほん」)を起こしたということで、日本全国に大変な衝撃を与えた(酒井一1998)。ましてや、みきは大阪の近隣の奈良に住んでいたのだから、取引のあった商人のネットワークを通じて、「幕藩体制の終わりの始まり」という側面があった大塩平八郎の乱について詳細な情報を入手していたはずである(村上1992)。みきは、大塩平八郎の乱に両義的な感情を強くもったであろう。自分自身は奉行所の与力という社会的に恵まれた立場にありながら、弱者救済(大塩の言葉では「救民」)の「世直し」を掲げた点では、みきは大塩に強く共感しただろう。しかし、現在の大阪市の約五分の一を火の海にしたという対抗暴力の「むごさ」や、武士と町人の峻別を主張する身分意識(「へだてる心」)(高野2001)には、強く反発しただろう。

4.「暴力のアート」としての「力比べ」

 私は、アナーキスト向井孝にならって、「暴力」概念を、1.対話を拒否して、2.加害の意志をもって、3.物理的力を行使すること、と極めて抽象的に定義する(向井2002)。こう定義すれば、現在われわれがイメージしている「平和」状態とは、江戸幕府や近代国民国家が、軍隊や警察という形で「暴力」を独占していることの「効果」としての「疑似非暴力」状態にすぎず、「真の平和」ではない。誤解を招かないように言っておくが、私は、国家や国家暴力が悪だとか、廃絶すべきだと言いたいのではない。軍隊も警察ももちろん必要である。  「国家=悪」と言いたいのではなく、いったん「暴力」概念を抽象化することで、社会現象の分析に新たな角度から光をあててみたいのである。みきは、国家暴力と対抗暴力の無限連鎖からの解放(みきの言葉では「むほんの根(ねへ)を切る」こと)を、経験に基づいて日本の民俗宗教的な「親神の力」に求めるようになったのではないか。
 「疑似非暴力状態」ではない「真の平和」を実現するためには、かつてのマルクス主義のような「暴力革命か絶対平和か」という単純な二分法に依拠することなく、人間は「暴力の大好きな生き物」(みきの言葉では「あざない」(=思慮の浅い)者)であることを直視して、「暴力の制御可能性」を生活のさまざまな側面とリンクさせながら高めていく「暴力のアート(術)」(酒井・萱野、同上)が必要である。みきの場合、そうした暴力のアートのひとつが、「稿本・天理教教祖伝逸話篇」に5編も似たような話が記録されている、男性たちとの「力比べ」だったのだと思う(<資料2>参照)。少なくとも老境に達してからの明治時代の中山みきは、自分のもとを訪れた男性たちに、「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。「稿本・天理教祖伝逸話篇」に、同じような話が複数記録されているのはこの「力比べ」の逸話だけであることから考えて、老境に達した明治期には、みきは自分のもとを訪れる男性に頻繁に「力比べ」を持ちかけていたのだろう。天理教の原典(教典)である「おふでさき」の、みきが77才となった明治7年に書かれた部分である第3号第84首でもこう説かれている(<資料1>参照)。教団外部の自然科学者なら、男性たちはみきのカリスマ性を前にして暗示にかかったのだ、と説明するだろう。
 天理教教団は、他のいかにも宗教家らしい逸話とはやや異質なこうした「力比べ」の逸話に、「教祖はみずからが月日のやしろに坐しますことを示されたのである」と特別にコメントを加えている(「稿本・天理教教祖伝逸話篇」)。しかし、自分が生き神であることを示す方法なら他にいくらでもあったはずで、事実、「病気治し」を代表として、そうした逸話は数多く残されている。天理教教団のコメントは、説明になっていない。みきは、男性信者たちの暴力を制御する可能性を、親神(天理王命)に対する信仰に基づいて高めようとしたのではないだろうか。
 天保の飢饉の時代から、全国の百姓一揆は「世直し大明神」を掲げることが増えた。大塩平八郎も、世直し大明神のひとりとして位置づけられた(酒井一、同上)。それに続く「世直し」という時代の風潮や、明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、「生き神」の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する「対抗暴力」の運動(みきの言葉では「むほん」)の指導者を期待する「血気盛んな」男性も少なくなかったのではないか。そうした男性たちに、「力比べ」を持ちかけて簡単に負かして「神の方には倍の力」と説くことによって、みきは、「暴力に訴えることの空しさ」を暗にさとし、「力任せ」の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか。
 例えば、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年)は、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた「やくざ」の大親分であった。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920年大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団の初期の雰囲気が、迫力をもって描かれている。
 やくざ時代の平野楢蔵の悪行についても、「こんな(熊田註;喧嘩の)場合に幾人の人命が彼の不当な欲望の犠牲になって居るかわからない。」(同上、p9)と正直に書かれている。「重い神経病」(幻覚と幻聴)を経て、「ない命を助けられ」やくざ稼業からきれいに足を洗い信心に打ち込むようになってからも、平野楢蔵は暴力と全く無縁になった訳ではなかった。教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には、平野楢蔵は対抗暴力に訴え、みきに「このものゝ度胸を見せたのやで」「明日からは屋敷の常詰とする」(同上、p59)と、教祖の護衛に任命されている。こうした対抗暴力については、次のように説明されている。

 これ等の出来事に現れた平野会長の行動を只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あるいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめた会長の心情に漲る「道思ふ」てふ精神、「我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり」てふ精神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか(同上、p80)。

 初期の天理教教団には、「人々は今更ながらに天理王命に敵たうた不心得者の悲惨な末路に『いかほどの がうてき(熊田註;「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ かみのほうには ばいのちからや』(熊田註;教祖が書き残した原典「おふでさき」の一節)と口ずさんだ。」(同上、p74-p75)という雰囲気があったようである。
 また、諸井政一(1876年―1903年)が、教祖についての伝承を明治時代に記録した「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。

 教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅう(熊田註;難渋)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)

 現在の天理教教団は、「正文遺韻抄」は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。
 「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。
 みきの「力比べ」を見聞した男性たちは、親神の前では人間の暴力など無に等しいことを知り、それからはもはや、江戸幕府や明治国家に対する対抗暴力はもちろん、妻に対するドメスティック・バイオレンスを含めて、力任せに暴力に訴えることができにくくなったであろう。みきは、「力比べ」によって社会の底辺に生きる「荒くれ男」たちの手綱を見事にさばいて見せたのだと思う。「真の非暴力」の教えを我が身でもって具体的にわかりやすく説いたのが、みきの「力比べ」だったのではないか。みきは、近代日本において、日本的な「無抵抗・不服従」運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う(池田2007)。
 みきは力だめしをした多くの人々の中で、梅谷四郎兵衛に自分の「空白の3年間」について、次のような詳しい話をしている(3)。「正文遺韻抄」はあくまで教祖についての「伝承」を記録した本であるが、この部分は、伝聞先が明記されているので、史料としての信憑性が高い。

 この道の最初、かかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々にせめられて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬ方がましやと思ふた日も有ったで。よる、夜中にそっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事は、三度まで有ったがな、井戸側へすくっと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきかず、身体はしゃくばった様になって、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、声がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどにゝ、年のよるのを、まちかねるゝ、かへれゝ」と仰有る。(諸井1970、p139)

 「正文遺韻抄」では「年のよるのを、まちかねる」を「一つには、四十台や、五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことは出来んが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年のよるのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」、「八十すぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよと仰有る」(同上、p140-p141)と説明している。みきの「力比べ」が「暴力のアート」のひとつ、「荒くれ男たちの手綱さばき」であったという私の解釈を裏付ける有力な証拠である。
5.天理教教祖とドメスティック・バイオレンス
 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。天理教のように「夫婦関係」を人間関係の基本(=「ひながた」)と考えるならば、ドメスティック・バイオレンスの問題にどう対処するかは、なおのこと切実な問題である。
 「稿本・天理教教祖伝逸話篇」には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている(<資料3参照>)。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません。」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。現在の天理教では、信者の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあっている場合は、妻を決して責めないように細心の注意を払いながら、夫婦それぞれにカウンセリングを行い、夫婦が話し合っても解決がつかない場合は「神にお詫びした上で離婚するように」と説いている(天理やまと文化会議(編)2004)。しかし、中山みきが存命の頃の天理教信者同士の夫婦の場合、夫が妻に対して身体的暴力を振るうことは、そもそもありえない話だったのではないだろうか。
 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。
 高野友治が、古老からの聞き書きをまとめた労作「ご存命の頃」には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(p214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛、長男・秀司をはじめとして、みきについていく男性信者は、世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう(4)。逸話三二は、世間の男性の基準(「男の中の男」のイメージ、専門用語を用いれば覇権的男性性、近代の日本人男性の場合は「集団主義」と「意地の系譜」を特徴とする(熊田2005))から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。

6.おわりに―宗教と「暴力の問題系」
 「はじめに」で述べたように、現在、宗教と暴力の関係を根本的に再考することが、地球規模で要求されている。この論文では、「暴力か平和か」という単純な二分法を離れて、人間は暴力が大好きな生き物であることを直視し、生活のさまざまな側面とリンクさせながら暴力の制御可能性を増大させていく「暴力のアート」が重要であり、天理教教祖の場合は、神(親神)に対する信仰に基づいた「力比べ」がそうした暴力のアート(手綱さばき)のひとつだったのではないか、と主張した。
 「稿本・天理教教祖傳」が大塩平八郎の乱についてひと言も触れず、「稿本・天理教教祖伝逸話篇」がみきの「力比べ」について説明になっていないコメントをつけている理由は、もちろん教団が教祖の独自性を強調したかったからであろう。しかし、それだけではなく、やや挑発的な発言を付け加えるならば、これらの教典が編集されたころには、天理教の教学者たちが、みきが「引きこもり」の3年間に、当事者性をもって真剣に考え抜いたほどには「宗教と真の非暴力」の関係について深く考えておらず、天理教は常に「平和」的な(私に言わせれば「疑似非暴力」的な)教団だったと、外部社会にアピールしたかったことにもよるのではないだろうか(5)。
 天理教の聖地「おぢば」(奈良県天理市)の月次際・大祭では、みきの教えに従って、「よろづだすけのつとめ」を行っているが、みきはその他にも十一通りの特別な守護をお願いする「おつとめ」を教えている。をびやづとめ・一子のつとめ・ほうそづとめ・ちんばのつとめ・はえでのつとめ・肥のつとめ・雨乞いつとめ・雨さずけのつとめ・虫払いのつとめ・みのりのつとめ・むほんづとめ、である。天理教の原典を素直に読めば、この中で一番肝心なのは、教学者の上田嘉成も指摘するように、「むほんづとめ」である(上田1980)。この「つとめ」の地歌は、以下の通りである(池田、同上)。

あしきを払うて どうぞ
むほん
すっきり 早く
おさめたすけたまえ
天理王命
南無天理王命
南無天理王命
     (7回繰り返す)

 「改訂・天理教事典」によれば、この「おつとめ」の「手振り」(踊りの振り付け)には、刀をさすような動作があるそうである。現在の天理教教団では、十一通りのおつとめのうち、「をびやづとめ」(安産の祈願)と「はえでのつとめ」(豊作の祈願)を行っているだけで、一番肝心な「むほんづとめ」はもう行われていない。
 現在の天理教教団は、もはや教祖から遠いところにあるのかもしれない。


<資料1>原典(教典)「おふでさき」の記述
*原典「おふでさき」第3号、第81首〜第84首(明治7年、みきが77才の時の執筆)
これからは神の心と上(かみ)たるの 心と心の引き合わせをする
この話一寸(ちょっと)のことだと思うなよ 上が真実見かねたる故
これからは神の心と上(かみ)たるの力比べをすると思えよ
いかほどの剛的あれば出してみよ 神の方にも倍の力を
真実の神が表に出るからは いかなる催ふもすると思えよ
(「みかぐらうた・おふでさき」p48)

<資料2>天理教教祖の「力比べ」の逸話
1.逸話七五 これが天理や
明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が眼病にかかり、失明せんばかりの重体となった。隣家に住む井筒梅次郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかなご守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼参りにお屋敷へ帰らせていただいた。
教祖(おやさま)は、中川にお会いになって、
「よう親里を尋ねて帰ってきなされた。一つ、私と力比べしましょう。」
と、仰せになった。
日頃力自慢で、素人相撲のひとつもやっていた中川は、このお言葉に苦笑を禁じ得なかったが、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、ご自身の左手首を力限り握りしめるように、と仰せられた。
そこで、中川は、仰せの通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議なことには、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍してください。」と、叫んだ。このとき、教祖は、
「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れてきたら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか。」
と、仰せられた。(「稿本・天理教祖伝逸話篇」p131-132)

2.逸話一一八 神の方には
明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、はじめておぢばへ帰って、教祖(おやさま)にお目通りさせて頂くと、
「こうして手を出してごらん。」
と、仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差し指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挟んで、お上げになる。そして、
「引っ張って、取りなされ。」
と、仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで、離れない。そこで、「恐れ入りました。」と申し上げると、今度は、
「私の手をもってごらん。」
と、仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、
「しっかり力を入れて握りや。」
と、仰せになる。そして、
「しかし、私が痛いというたら、やめてくれるのやで。」
と、仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、
「もっと力はないのかえ。」
と、仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました。」と申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめになって、
「それきり力はでないのかえ。神の方には倍の力や。」
と、仰せられた。(同上、p198-200)

3.逸話一三一 神の方には
教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、
「力試しをしよう。」
と、仰せられ、ご自分の腕を、
「力限り押さえてみよ。」
と、仰せられた。けれども、どうしても押さえきることができないばかりか、教祖が、少し力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、
「神の方には倍の力や。」と仰せになった。又、
「こんなこと出来るかえ。」
と、仰せになって、人差し指と小指で、こちらの手の甲の皮を、おつまみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。
又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なさったこともあった。
これは、宮森の思い出話である。(同上、p220-222)

4.逸話一五二 倍の力
明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばに帰っても、教祖にお目にかからせていただける者は稀であった。そこへ土佐卯之介は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から参りました。」と申し上げると、教祖は、
「遠方はるばる帰ってきてくれた。」
と、おねぎらい下された。続いて、
「土佐はん、こうして遠方からはるばる帰ってきても、真実の神の力というものを、よく心に治めておかんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん。」
と、仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、ご自分の親指と人差し指との間に挟んで、
「さあ、これを引いてごらん」
と、差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、
「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで。」
と、仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を込めて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であった。が、どうしても、その手拭が取れない。遂に、「恐れ入りました。」と頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、
「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん。」
と、仰せになるので、「では、御免下さい。」と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、「さあ、もっと強く、もっと強く。」
と、仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、遂に土佐は兜を脱いで、「恐れ入りました。」と、お手を放して平伏した。すると、教祖は、
「これが、神の、倍の力やで。」
と、仰せになって、ニッコリなされた。(同上、p254-256)

5.逸話一七四 そっちで力をゆるめたら
もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当に腕に覚えがあった仲野秀信が、ある日おぢばに帰って、教祖にお目にかかった時のこと、教祖は、
「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われてなさるが、ひとつ、この手を放してごらん。」
と、仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手に込めて、気合諸共ヤッとひきはなそうとした。しかし、ご高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。
まだ壮年に仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何んとかして引き離そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。
それのみか、驚いたことには、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張る程、だんだん自分の手首が堅く握りしめられて、ついには手首がちぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに耐え切れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います。」と言って、お放し下さるように願った。すると、教祖は、
「何も、謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は、今だけの事やない程に。」
と、仰せになって、静かに手をお放しになった。(同上、p288-289)

<付録3>天理教教祖とドメスティック・バイオレンス
逸話一三七 「言葉一つ」
教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、
「内でよくて外で悪い人もおり、内で悪く外で良い人もいるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる。」
と。又、
「伊三郎さん、あんたは外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように。」
と、仰せになった。
桝井は、女房が告げ口したのかしら、と思ったが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返して、今後は一切腹を立てません、と心を定めた。すると、不思議にも、家へ帰って女房に何を言われても、一寸(ちょっと)も腹が立たぬようになった。(同上、p228-229)

逸話三二 「女房の口一つ」
「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、言われるような男でも、家にかえって、女房が、あなたお帰りなさい、と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆というけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで。」
と、お教え下された。(同上、p50-52)


<註>
(1)天理教の概要については、「改訂・天理教事典」を参照したが、天理教に全くなじみのない読者のことを考えて、この節の記述は「フリー百科事典」に大きく依存した。
(2)島薗は、「みきは生涯強い父の面影を追っていた」と解釈しているが、この説は実証的根拠に欠ける(島薗1977)。
(3)梅谷四郎兵衛は、教団初期の篤信者のひとりである。
(4)池田士郎は、教祖・中山みきだけではなく、教祖の夫・善兵衛や長男・秀司を含めて、教祖の一家全員を「ひながた」(信仰の模範)とみなす解釈を提出している(池田、同上)。
(5)第二次世界大戦終結直後、二代目真柱・中山正善の時代である。


<謝辞>
 この論文は、『愛知学院大学人間文化研究所紀要』22号に発表した拙論「日本の新宗教と『暴力のアート』―天理教教祖の場合―」に大幅な加筆修正を加えたものである。加筆修正にあたっては、東京大学島薗進氏と天理大学の池田士郎氏、および筆者が所属する民衆宗教研究会のメンバーに貴重なアドヴァイスを賜った。記して深く感謝したい。


<参考文献>
「稿本・天理教教祖傳」天理教道友社、1956年
「稿本・天理教教祖伝逸話篇」天理教道友社、1976年
赤松啓介「非常民の民俗文化」明石書店、1986年
池田士郎「中山みきの足跡と群像―被差別民衆と天理教明石書店、2007年
上田嘉成「天理教教典講習禄」天理教道友社、1980年
上野千鶴子「生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠」岩波書店、2006年
熊田一雄「“男らしさ”という病?―ポップ・カルチャーの新・男性学」風媒社、2005年
酒井一「記念講演 大塩平八郎とその時代」『大塩研究』第39号、大塩事件研究会、1998年
酒井隆史「暴力の哲学」河出書房新社、2004年
酒井隆史萱野稔人「『暴力のアート』の方へ」『クォータリー〔あっと〕』3号、太田出版、2006年
島薗進「神がかりから救けまで」『駒沢大学仏教学部論集』8号、1977年
    「疑いと信仰の間―中山みきの救けの信仰の起源―」池田士郎・島薗進・関一敏『中山
    みき・その生涯と思想―救いと解放の歩み』明石書店、1998年
高野友治「ご存命の頃」天理教道友社、2001年
天理教郡山大教会(編)「道すがら」郡山大教会1920年
天理大学おやさと研究所(編)「改訂・天理教事典」天理教道友社、1997年
天理やまと文化会議(編)「道と社会―現代“事情”を思案する」天理教道友社、2004年
中山みき(村上重良:校注)「民衆宗教の聖典・みかぐらうた・おふでさき」平凡社、1992年
向井孝「暴力論ノート―非暴力直接行動とは何か」「黒」発行所、2002年
諸井政一「正文遺韻抄」天理教道友社、1970年
フリー百科事典「天理教Http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99