「民衆宗教」と暴力

「宗教と社会」15号所収予定原稿
<報告者>熊田一雄(愛知学院大学文学部宗教文化学科)

 この報告では、日本の初期新宗教である天理教を題材に、従来研究者が目をつむりがちであった新宗教と<暴力>の際どい関係をクローズ・アップし、宗教界の現状を批判する。
 1892年に、北村透谷は、「徳川氏時代の平民的理想」という論文で、江戸時代に庶民の生んだ思想の中でキリスト教社会における騎士道に匹敵するものは、「侠」(「女侠」を含む)と「粋」くらいである、と述べている。天理教のような日本の初期新宗教には、「侠気」の「エートス」がかつては確かに存在していた。<暴力>の渦巻く、激動の時代状況の中を生きた天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)を再検討することによって、「宗教と暴力」という切実な現代的問題を考える上でのヒントを引き出したい。            
 島薗は、中山みき1838年の最初の神がかりをきっかけとして徐々に独自の教えを説く宗教家になったのだ、といういわば「過程説」の立場をとる。そして特に、最初の神がかりから中山みきが人々に教えを説くまでの「空白の3年間」に注目する。しかし、空白の3年間に中山みきが抱え込んでいた葛藤の内容については、私は島薗と少し違う見方をしている。みきには、「侠気」を体現した一種の女傑、「女頭目」とでも呼びたい女性という側面もあったように思われる。1838年に最初の神がかりをしてからのみきの「引きこもり」の3年間は、1837年の「大塩平八郎の乱」の影響を受けて、みきが、「宗教と真の非暴力」とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあったのではないか。
 数百万人の餓死者を出した「天保の飢饉」のさなかに大阪で起きた大塩平八郎の乱は、百姓ではなく幕府の側の役人が反乱を起こしたということで、日本全国に大変な衝撃を与えた。みきは、大塩平八郎の乱に両義的な感情を強くもったであろう。「真の平和」を実現するためには、人間は「暴力の大好きな生き物」であることを直視して、「暴力の制御可能性」を生活のさまざまな側面とリンクさせながら高めていく「暴力のアート(術)」が必要である。みきの場合、そうした暴力のアートのひとつが、「稿本・天理教教祖伝逸話篇」に5編も似たような話が記録されている、男性たちとの「力比べ」だったのだと思う。明治時代の中山みきは、自分のもとを訪れた男性たちに、「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。天理教の原典(教典)である「おふでさき」の、でもこう説かれている。大塩平八郎の乱に続く「世直し」という時代の風潮や、明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、「生き神」の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する「対抗暴力」の運動の指導者を期待する「血気盛んな」男性も少なくなかったのではないか。そうした男性たちに、「力比べ」を持ちかけて簡単に負かして「神の方には倍の力」と説くことによって、みきは、「暴力に訴えることの空しさ」を暗にさとし、「力任せ」の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか。
 例えば、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵は、「やくざ」の大親分であった1920年大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、教団の初期の雰囲気が、迫力をもって描かれている。「重い神経病」(幻覚と幻聴)を経て、「ない命を助けられ」やくざ稼業からきれいに足を洗い信心に打ち込むようになってからも、平野楢蔵は暴力と全く無縁になった訳ではなかった。教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には、平野楢蔵は対抗暴力に訴え、みきに、教祖の護衛に任命されている。初期の天理教教団には、「人々は今更ながらに天理王命に敵たうた不心得者の悲惨な末路に『いかほどの がうてき(熊田註;「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ かみのほうには ばいのちからや』と口ずさんだ。」という雰囲気があったようである。「道すがら」や「正文遺韻抄」の記述は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。
 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。
 「稿本・天理教教祖伝逸話篇」には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません。」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。
 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもなくはないようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。その頃の「貧へ落ちきり」を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。逸話三二は、世間の男性の基準から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。
 現在の天理教教団は、もはや教祖から遠いところにあるのかもしれない。(詳しくは、拙論「天理教教祖と<暴力>の問題系」「愛知学院大学文学部紀要」37号、2008年を参照)

島薗進氏のコメントへのリプライ>
 天理教をはじめ、初期新宗教の発展を支えたのは、赤松啓介のいう「女頭目」タイプの女性たちであったと思う。しかし、1930年代から1970年代までは、「総力戦体制」と良妻賢母規範に押されて、「女頭目」は新宗教において活躍しにくくなったように思われる。天理教の場合、中山正善による近代的教典の編集が、「女性の侠気」の抑圧において決定的な役割を果たしたのではないか。この時期に例外的に成功した「女頭目」は、敗戦直後に「女役座」を自称した天照皇大神宮教の教祖・北村サヨだったのではないか。
 2000年代に入ってからのマンガ=TVドラマ「ごくせん」の大ヒットに見られるように、現代日本の大衆文化においては、「侠気」、特に「女性の侠気」の再評価が生じている。1960-70年代に団塊の世代の男性がやくざ映画を愛好したのは、「プロジェクトX」的な「企業戦士」として生きる現実に対する単なる「代償行為」に過ぎなかったのではないか。それに対して、現代日本においては、「強くなった女性」と「わがままになった若者」が、現実における「侠気」の新たな担い手として台頭しつつあるのではないか。
 私の場合、新自由主義に対する対抗軸として「民衆宗教」研究を構想しているが、決して近年の「スピリチュアリティ」研究を全否定しておらず、各種の自助グループアダルトチルドレン運動が台頭するのは時代の必然だと考えている。島薗氏は、近年の「宗教」が集団や共同体を作らない傾向にあるのは、現代における「人間関係の希薄化の反映」だとしているが、それは現実を単純化している。特に、1970年代以降先進国全域で問題になっている「パーソナリティ障害」(性格の病)を抱える人たちには、「あえて世話をしない」方がかえって親切なことが多い、と考えるからである。しかし、現時点では、各種の自助グループアダルトチルドレン運動では、「参加者のアフターケア」がまだ十分ではない。各種の自助グループアダルトチルドレン運動に「民衆宗教」的な側面はあるが、現時点ではまだ不十分であり、宗教界との連携が強化される必要がある、と考えている。