天理教教祖の「力比べ」の起源
天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)が男性信者に対して行っていた「力比べ」については、先にブログ記事「天理教教祖の『力比べ』について」で考察を加えておきました。拙稿「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年もご笑覧いただければ幸いです。問題は、「暴力のアート」(荒くれ男たちの手綱さばき)としての「力比べ」という発想をみきはどこから流用してきたのか、ということですが、「古事記」からでではないかと思います。天理教の創世神話である「泥海古紀」に見られるように、みきは明治政府が広めようとした記紀神話の内容を、吉田神道を経由して、詳しく知っていました。古事記に掲載されている神々の力比べのエピソードと、「稿本・天理教教祖伝逸話編」に記録されている最も古いみきの力比べの逸話は、「握力を比べる」という点が共通しています。
『古事記』上巻 タケミカヅチが高天原から出雲に降下し、オホクニヌシに国譲りを要求する。オホクニヌシの子タケミナカタが力くらべを挑み、タケミカヅチの手を取ると、それは氷柱や剣の刃のごとくであった。タケミカヅチはタケミナカタの手を、若い葦のごとくに掴みひしぎ、タケミナカタは信濃の諏訪湖まで逃げた。
逸話七五 これが天理や
明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が眼病にかかり、失明せんばかりの重体となった。隣家に住む井筒梅次郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかなご守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼参りにお屋敷へ帰らせていただいた。
教祖(おやさま)は、中川にお会いになって、
「よう親里を尋ねて帰ってきなされた。一つ、私と力比べしましょう。」
と、仰せになった。
日頃力自慢で、素人相撲のひとつもやっていた中川は、このお言葉に苦笑を禁じ得なかったが、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、ご自身の左手首を力限り握りしめるように、と仰せられた。
そこで、中川は、仰せの通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議なことには、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍してください。」と、叫んだ。このとき、教祖は、
「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れてきたら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか。」
と、仰せられた。(「稿本・天理教祖伝逸話篇」天理教道友社、1976年、pp131-132)