天理教とひきこもり

 だから、「ひきこもり」というのは、一端入ると、3年を超えるとなかなか出にくくなっていく。出るパワーがだんだん消えていく、そういうところはあるように思いました。

 この地球に60億人という人がいる。あるいは60数億いるわけです。だけど、その子がひきこもっているのです。その子がひきこもっているという意味を考えないで、ただ全体にならして「ひきこもり」という形は、ものすごく無礼な話になります。その子にはその子の事情があったという風に思わなければなりません。その子の人格の中で何かがあるのだという、それを私たちが尊敬できるかどうかです。


 これは、ひきこもっている人というのは、本当に家族が一番怖くなるのです。何とかならないかなあという、そういう空気が満ち満ちているから。


 ですが、あえて僕は、子ども達の気持ちになって言えば、だいたいひきこもっている子どもは、たいてい親孝行し尽くしてしまった子どもです。だから、一生分の親孝行をもう置いているのです。だいたい17歳ぐらいまでに、この子はものすごくいい子だったはずです。


 要するに、ここで5年間やってきた意味というのは、家の中の心の温暖化です。自分の心が本当に温暖化していっているかどうかです。(中略)やはり温暖化にならないと、家の中があったかくならないと、子どもは部屋から出ません。

 
 その意味で、振り返って、僕はこの“親の会”を5年間やってきた値打ちがあったのだと、痛感します。やはり、子どもは悪態をつきます。子どもが悪態をつく条件は、子どもが弱音をはけるようになってから悪態をつきます。子どもが弱音を吐けるということは、人格上のものすごい成長なのです。弱音を吐ける人間の強さを知らなければなりません。弱音を吐いていく中で、親を責めます。「あの時、母ちゃんこうだったじゃないか、父ちゃんこうだったじゃないか。」と。そうすると、親はたまらないのです。「こんなに世話をしていて何故責められるのか。」と。ここが考えるポイントになります。それは、人間が本当にしんどい時、私達を含めてです。誰かを責めないことには、恨まないことには身が持ちません。これは、人間の真実です。人間が一番良い時には、誰かに、「ああしてくれたらよかったのに。こんな手助けがあったら苦しまないですんだのに。」と、自分自身が思います。だから、この子はそうやって親を責める・恨むことが、この子にとって絶対に生きるためには必要だったのです。その必要な、命の種火なのです。この種火を、押しつぶす権利は私達にはないのです。「ああ、この子にとって、これは今必要なんだ。」、「これで、この子は今、自分の命を守っているんだ。」と、こちらが切り替えられれば、子どもの責める言葉にも耐えられます。「そうか、そうだったのか。気づかなかったなあ。」と言います。でも、これに気づかないと、「お前はまた同じことを言っている。前にも言っていたじゃないか。あの時、お母さん達、こうだったんだ、ああだったんだ。」と必ず弁解が始まります。そうすると子どもは、ちっとも自分の気持ちが分かってくれていないという風になってしまいます。これはどうでしょうか。頷いてくれるでしょう。いい・悪いだったら、絶対に私達の考えの中では、引きこもったら悪いのです。「不登校」は悪いとなります。だけど、その子にとって今、それが必要なのだと理解をし、それが本人自身の、自分を守ることだと思えば、許せます。「我慢しよう。」と。


 それで、僕はこんな風に思ったのですが、一体この“親の会”を僕は5年やってきて、この“親の会”というのは、例えたら何になるのかと思ったときに、ここは、心の「灯台」です。これは、本当に「灯台」なんだと思うのです。だから、この「灯台」の火は絶対に消してはならないのです。


 それで、「待つ。」ということは、命がけです。「待つ。」と言う時、だいたい大人はずるいから、交換条件をやっています。だけど、「待つ。」ということは無条件です。無条件で待ってあげる。無条件で待つということは、その子の生き方・人格を尊敬することから始まります。


 「貧に落ちきれ。」という教祖の雛形があるという話は伺っていますが、あの当時は「貧乏」という意味に、「赤貧洗うが如し」ということですが、今はこういう時代になっていますが、教祖は普遍的なことをおっしゃっているはずですから、「貧に」ということは「困っている子どもの状態に、お前寄り添いなさい」というのが神様のおっしゃることだと思います。「寄り添ってみろ。」、そうすれば、困った子、「この子は困っています。うちはものすごく困っています。」ではなくて、「困っている子」なんだという風に変わるはずです。「一人ぼっちがすごく寂しくて、辛い思いをしながらも、ちゃんと日々生きているんだと。引きこもっている時間も、生きている時間です。教祖からちゃんと、36・5度の体温を与えられて生かされている子どもです。そこを間違えると、私達はお道の上でのとらえ方を間違えると思うのです。


 子どもは子どもで辛いです。「出たいけど、出られない。」。この気持ちがわかってもらえない辛さというのがあります。人を拒めば拒むほど、人恋しいのです。恋しいけれど、「恋しい」という言葉が出せない。その辛さというか、それは私達が察しなければいけないと思います。


 もう一つ、僕が思うのは、ここだけに“親の会”があるのではなくて、各地に、こういうようなところが出来て、その地域地域の人が集まって、交流できれば、もっともっと子ども達は、救われるのではないかなあ、と思います。それが課題だなあと思っています。とにかく、私達のやることは、繋ぐことだと思います。まず、会長さんは親御さんに繋ぐ、こういうスタッフの方は親の人たちに繋いでいく、そしてやはり親は子どもと繋ぐ、繋ぐ時にはやはり柔らかな繋ぎ方です。あたたかな眼差し、まずは姿勢です。本人の辛さをやはり、感じることです。


 心というのは一つの臓器、私達の内蔵と同じような、見えないけれども臓器だと思うと、やはり私達が温かな形で接すれば、固まった、カチカチの心も柔らかになっていくと思います。だから、心も色んな形で詰まるし、傷つきやすいし、割と腐りやすいし、そういう生き物だという風に思うと、私達の接し方の工夫も、私はできるような気がします。
(佐藤勇吉、「天理ファミリーネットワーク〜第1回“ひきこもり”を考える親の集い〜講演録」、非売品、2007年)


*「その子がひきこもっているという意味を考えないで、ただ全体にならして「ひきこもり」という形は、ものすごく無礼な話になります。」という言葉は、自称「ひきこもりの専門家」に対する痛烈な批判になっていると思います。
 「柔らかな繋ぎ方」という考えは、精神科医の笠原嘉のいう「斜めの関係」に通じると思います。