対人恐怖症者と「羞恥」

 だが中等以上の対人恐怖症者となると、ひとりでにそんな反転がおこることを期待してもまず無理だし、また期待すべきではないだろう。仮に彼らが対人恐怖症的苦悩から解放されても内向的内省的羞恥性から全く自由になるとは考えにくい。その場合、われわれ成人が心しなければならないことは、われわれの今日の文化があまりにも社交性外向性に人格的魅力のポイントをおきすぎる、いわばセールスマン的文化だということだろう。対人恐怖症者自身も、そしてわれわれ非対人恐怖者もともに、羞恥に低い評価を与えることにあまり熱心になりすぎないよう警戒すべきだと思う。
(中略)
 精神療法とか心理療法といわれる治療をする者には、私の思うには、病人への単なる同情以上のものがいる。少し大袈裟でロマンティックにすぎるかもしれないが、ノイローゼ的不安に直面している人間への畏敬、あるいは肯定といった面がいると思う。そうでないと単なるお説教屋におわる危険がある。対人恐怖症者の直面する対人羞恥の問題は、水面上のあれわれとしては以上に述べてきたように正常範囲内の羞恥と相当に違うけれども、底の方では正常異常の区分をこえて、日本人的羞恥の問題につながっていて、それはもう同情したり、ネガティヴにみたりできるほど他人ごとではない。いうなれば同じ穴のムジナである。治療者にとってもわが内なる問題である(笠原嘉『青年期ー精神病理学からー』1977年、pp.34-35)。


*この先駆的考察が書かれてから30年以上経ち、日本社会の産業構造は第3次産業へとソフトミクス化が進み、笠原氏のいう「セールスマン的文化」はエスカレートして「コミュニケーション強迫」(高岡健)と呼びたいところまできているように思います。「羞恥」の再評価はますます必要とされているのではないでしょうか。