被害者権力を超えて―斎藤学氏への疑問―

 小さいころ虐待を受けた人。凄まじい思いを生きて、「うつ」になったり、PTSDになったり、人格障害と診断されたり、命を絶とうとしたり、そんな若い人との付き合いは、いつもこの神話(熊田註;メソポタミア創造神話、兄弟殺しの物語)に帰着します。自分が人間として生きていくときに、その人が最終的に求めているものは「自信」よりももっと根底的な、「生きることとの和解」です。自らに襲いかかってくるものに対してなお自分でいつづけられるような「ゆとり」の回復ですね。そうしたものを生み出すのは診察室の治療というより、社会的な和解の実現だと思います。原因を親に遡るなら、人類の最初の先祖にまで遡って考えて生きていくしかない。そのために一番いやな人間と生きていくことを支え合うしかないし、どんなことをしてでも死んではならないし、殺してはならない。そうした和解が恨みや憎しみの中から親子や家族の間で生まれてきたときに、何となく楽になってくるというのが30年くらい付き合ってきた人たちから読み取れるストーリーなのです(石川憲彦+高岡健『心の病いはこうしてつくられる』批評社、2006年、p83、石川談)。


 私は虐待を受けた子どもにも同じことを感じます。虐待を受けていながら親を許したり、認めたり、あのとき自分の親はこうだったのだ、と再確認して、自分が社会に生きる文脈に位置づけなおす。アルコール依存症の場合でしたら、一時は刃物を持って自分を殴る蹴る親を殺そうとした子が、アルコールを飲むのはしょうがなかったのだと言って、60歳を過ぎて肝臓をやられてしまった父親を背負って病院通いをしながら、「どうしようもない親だけどまあ親だから」とか言いながら世話しているわけですね。
 そういう一番憎い敵ですら許せる文脈を社会は一方で持たなければいけないのではないかと思います。被害者の権利―それは大事なことなのですが―は、即加害者を罰することと同じように働いてしまうだけでは虐待の連鎖から抜け出せないのではないかと思います。虐待を受けた人にとって怖いのは、自分が被害者であるという主張をした瞬間、対極にある加害者が実は一番親しい関係、「共依存」という関係を持たせられしまうことです。これによって加害者性と被害者性を自己のうちにあわせ持ちながら自己否定しなければならない。そこが苦しいのですね(同上、pp.88-89、石川談)。


*「社会的な和解の実現」は、アダルトチルドレン運動でいう「被害者権力」の問題を乗り越える上で、重要な視点だと思います。正確には、「社会的な和解の実現」というよりも「宗教的な和解の実現」でしょう。メデイア精神科医斎藤学氏にかみしめてほしい言葉です。「自らに襲いかかってくるものに対してなお自分でいつづけられるような『ゆとり』の回復」とは、内観法でいう「だるま」のイメージを想起させます。 


「断酒とだるま」
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20131022/p3