いじめ自殺について

 外でのいじめられっ子は時には内で暴君となる、しかし、最後の誇りとして家族の前では「いい子」であり続けようとする場合も多い。最後の誇りが失われそうになった時に行われるのが自殺である。自殺による開放幻想はすでに「無力化」の段階からはぐくまれているが、自殺幻想は自殺を一時延期する効果もある。自分が自殺することによって加害者を告発するという幻想である。家族が初めてわかってくれ、級友や教師が「しまった」と思い「申しわけない」と言ってくれるという幻想もある。実際、自殺幻想が、極度に狭まった世界の唯一つの「外」への通路ということもある。
 強制収容所においては、この状態からさらに一歩を出れば、自尊心も自己決定権も何もない。生ける屍となり果てるという。もはや殴打の痛みも感じず、拷問も他人に加えられているようなものとなる。なるほど、いじめにおいては直接生命を奪うということはない。また、家庭という帰る場があるではないかといわれるであろう。しかし、いじめの場合、直接間接の暴力だけが辛いのではない。いじめの、特に「透明化」段階において辛いのは「無理難題」であり、子どもなりに社会的生命を賭けて何とか遂行した無理難題が加害者には紙片のように軽いものであるということ、すなわち、自己の無価値化の完成である。多くの子どもの自殺が、とうてい果たせない「無理難題」を課せられたことを契機に実行に踏み切っていることを強調したい。この「無理難題」はかりに実行できたとしても被害者によっては家庭における“市民権”の決定的喪失となる性質のものである(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年(初出1987年);pp.19-20)。