アダルトチルドレン現象と「命の種火」

 要するに、ここで5年間やってきた意味というのは、家の中の心の温暖化です。自分の心が本当に温暖化していっているかどうかです。(中略)やはり温暖化にならないと、家の中があったかくならないと、子どもは部屋から出ません。(中略)
 その意味で、振り返って、僕はこの“親の会”を5年間やってきた値打ちがあったのだと、痛感します。やはり、子どもは悪態をつきます。子どもが悪態をつく条件は、子どもが弱音をはけるようになってから悪態をつきます。子どもが弱音を吐けるということは、人格上のものすごい成長なのです。弱音を吐ける人間の強さを知らなければなりません。弱音を吐いていく中で、親を責めます。「あの時、母ちゃんこうだったじゃないか、父ちゃんこうだったじゃないか。」と。そうすると、親はたまらないのです。「こんなに世話をしていて何故責められるのか。」と。ここが考えるポイントになります。それは、人間が本当にしんどい時、私達を含めてです。誰かを責めないことには、恨まないことには身が持ちません。これは、人間の真実です。人間が一番良い時には、誰かに、「ああしてくれたらよかったのに。こんな手助けがあったら苦しまないですんだのに。」と、自分自身が思います。だから、この子はそうやって親を責める・恨むことが、この子にとって絶対に生きるためには必要だったのです。その必要な、命の種火なのです。この種火を、押しつぶす権利は私達にはないのです。「ああ、この子にとって、これは今必要なんだ。」、「これで、この子は今、自分の命を守っているんだ。」と、こちらが切り替えられれば、子どもの責める言葉にも耐えられます。「そうか、そうだったのか。気づかなかったなあ。」と言います。でも、これに気づかないと、「お前はまた同じことを言っている。前にも言っていたじゃないか。あの時、お母さん達、こうだったんだ、ああだったんだ。」と必ず弁解が始まります。そうすると子どもは、ちっとも自分の気持ちが分かってくれていないという風になってしまいます。これはどうでしょうか。頷いてくれるでしょう。いい・悪いだったら、絶対に私達の考えの中では、引きこもったら悪いのです。「不登校」は悪いとなります。だけど、その子にとって今、それが必要なのだと理解をし、それが本人自身の、自分を守ることだと思えば、許せます。「我慢しよう。」と(佐藤勇吉、「天理ファミリーネットワーク〜第1回“ひきこもり”を考える親の集い〜講演録」、非売品、2007年)。


*「心の温暖化」と「命の種火」は、実に卓抜な表現だと思います。特に「命の種火」という言葉は、「アダルトチルドレン現象は子ども達の正当な抗議だ」という評価と、「アダルトチルドレン現象は子ども達の単なる甘えだ」という批判の対立を乗り越えることを可能にしていると思います。