「社会的ひきこもり」は医療の彼方

 それにしても、あれほど激しかった紛争(熊田註;学園紛争)があんなに簡単に収まってしまったのは何故か。振り返ってそう思う。その解決に若干の苦労を余儀なくされたものの一人として不思議な気持ちがする。今までの私の解釈としては、文芸評論家の三浦雅士(二〇〇一)や古屋建三(二〇〇一)のいうように、「青春」という明治以来の概念がこのころ終焉した、というのが一番説得力があるように思える。一九七〇年代というのはそういう時代であったかもしれない。少し幅をとって一九六〇ー八〇年代とするべきかもしれない。この年代については後にもう一度立ち返りたい。
 たぶん、この年代を通過した後では、退却症は高学歴男性に関しての無気力でなく、希釈されて青年一般(といっても男性)におこる「社会的ひきこもり」(あるいは「ニート」)に変質したのではあるまいか。こうなると、医療の力の及ばぬ彼方へいってしまった感がある。事実、諸家の関心にもかかわらず、実効が上がらない。おそらく社会思想ないし社会政策レベルのなんらかの大きな変化が日本におこらない限り、この現象に歯止めはかからないのではないか(笠原嘉「心理・社会・脳」『「全体の科学」のために』みすず書房、2013年(初出2007年)。


*「『社会的引きこもり』は医療の力の及ばぬ彼方へ行ってしまった」というのも、「社会思想ないし社会政策レベルのなんらかの大きな変化が」が必要だ、というのも賛成です。「社会的ひきこもり」には、日本の宗教界も貢献できることが多いのではないでしょうか。たとえば、若者に「斜めの関係」を提供する用意をするというような。

「日本の宗教と『斜めの関係』ー天理教と脱ひきこもりー」
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20120327/p1