自分の意志で生まれた?

 今日の『朝日新聞』朝刊25面の教育欄の「道徳教育」特集「花まる先生−公開授業ー」という記事は、「自分の意志で生まれた」と題されています。


 あなた方は自分の意志で生まれてきた。どんなに生まれて欲しくても生まれてこない子もいる。命を無駄に使ってほしくない。不正をしたり、罪を犯したり、人にいじわるをしたり、そんなために生まれてきたかったわけではないはず・・・・・・


 全文を読み終えた後、感想を書かせ、発表させた。「かけがえのない命を大切にしていく、今を大切に生きていくことを改めて教えられた」「生まれたくて生まれてきたという言葉をかみしめて生きていこうと思った」


(熊田註;この授業をした教師談)
(前略)不安定な思春期には、自分の意志で生まれてきたと実感することが重要です。「生まれてこなければよかった」と子どもが言うこともあるでしょう。親は正直に思い切り泣くか怒るかすればいい。教科書的にでなく、人間の生のぶつかりあいから学ぶ。道徳を教科にして評価するなら「心がどれだけどう揺さぶられたか」を、生徒も教師の側も基準にすべきです。


 この世には、人間は「自分の意志で生まれてきた」というのは、日本では1970年代以降に大衆に広まった「精神世界」によく見られる発想で、西欧近代の神秘主義に起源をもちます。しかし、これは決して自明な立場ではなく、あくまでひとつの限定された宗教的立場です。芥川龍之介の小説『河童』では、「河童」の国では、出産に際して赤ん坊に「生まれてくる意志があるかどうか」、医師が確認して後、出産するかどうか決める、という、いわば「誕生のインフォームドコンセント」の場面が描かれています。例えば伝統仏教の信者なら、違う考え方をするでしょう。特定の宗教的立場を、公立学校の道徳教育で教えるのはいかがなものでしょうか?