アダルトチルドレン現象と「責める言葉は命の種火」

「こんなに世話をして、なぜ子供から責められるのか」
 親にとっては、ここが考えるポイントになります。
 人は辛いとき、だれかを責めたり、恨まないことには、身がもたないことがあります。これは人間の性(さが)ではないかと思います。その子にとっては、親を責めたり恨んだりすることが、生きていくために絶対に必要だったのです。「この子にとって、いま必要なことなんだ」「これで、自分の命を守っているんだ」と親の側が考え方を切り替えられれば、子供からの責めの言葉にも耐えられます。「そうか。そうだったのか。気づかなかったなあ」と思えるようになるものです。責める言葉を“命の種火(たねび)”だと捉(とら)えて、せっかくの種火を消してはいけません。
 でも親が、この種火の大切さに気づかなければ弁解してしまいます。「また同じことを言っているのか!前にも言っただろう。あのときは・・・・・・」。すると子供にとっては「ちっとも自分の気持ちが分かってもらえていない」となります。
 「良い」「悪い」という考え方だけでいえば、ひきこもっているのは「悪い」のです。不登校も「悪い」となります。しかし、その子にとって「いま、この状況が必要なのだ」という理解が大切なのです。「自分を守るためなのだ」と思えば、許すことができます(佐藤勇吉「命あることを喜び小さな幸せをみつける」『みちのともー特集・青少年のひきこもりー』2008年11月号、天理教道友社、2008年、p24)。


*「責める言葉は命の種火」とは、卓抜な表現です。「アダルトチルドレン現象は『親の支配』に対する子供の正当な反乱である」という評価と、「自称『アダルトチルドレン』はいつまでも『被害者権力』(自助グループ用語)を振りかざすことがある」という批判との対立を乗り越えられる視座だと思います。