辞世の歌

 「お前は死ぬ死ぬと言いながら、いっこうに死なないじゃないか?」
 「それでも死ぬんだ。いま言ったこのことばが、わたしの辞世の歌だ。歌の長い奴もいれば、歌の短いのもいる。でも、その差はいつも二言、三言でしかなんいだ。」(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、pp.237-238)。


*「普通の文章/辞世の歌」という二分法の脱構築です。

孤独をめぐる逆説

(前略)ロビンソンが、島の一番高い地点、正しくはいちばんよく目につく地点にしがみついていたとすれば、その原因は反抗心、謙虚さ、恐怖心、無知、憧憬、なんでもいいが、もしそうしていたら彼はまもなく破滅したことだろう。しかし彼は、航行する船舶や、その貧弱な望遠鏡を当てにせず、島中を探索し、この島に喜びを見いだしはじめたために、生きのびて―むしろ当然すぎるほど当然の帰結として―やはり最後には発見されたのである(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、p219)。


*孤独の逆説。孤独地獄を逃れるコツは、孤独を楽しむことかもしれません。「独りでいられる能力」(ウィニコット)の大切さ。

故郷喪失者

(前略)僕は<わが家>を去った、しかもたえず<わが家>に宛てて手紙を書かなければならない、たとえわが家といいうものがとうの昔に永遠の彼方に流れ去ってしまったはずだとしても。この書くという営みのすべては、孤島の絶頂に掲げられたロビンソンの旗以外のなにものでもない(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年(初出1922年)、p346)。


*約100年経って、グローバル化の急激な進行のなかで、われわれはみなユダヤ人だったカフカのような「故郷喪失者」になりつつあるのかもしれません。

「断食芸人」と「アンパンマン」

 文学史上で有名な「食べない」主人公は、なんと言っても、フランツ・カフカの短編小説『断食芸人』(1922年)の「断食芸人」でしょう。見世物として「断食芸」を続け、「自分の口に合う食べ物はなかった」と最後にサーカスの支配人に告白して、餓死し、代わりに檻に「豹」を入れられ、豹は「もうすっかり飽きられていた」断食芸人と対照的に、観客の人気を集めます。このサーカス芸人の物語は、キリスト教の禁欲的理想が陰り、代わりにニーチェ的な超人思想が台頭してきたことを表している、という読みも可能でしょう(カフカの妹は、ナチス強制収容所で殺されました)。
 『アンパンマン』は、頭の中の餡をエネルギー源にしているので、食事する必要はないし、食事しません。断食芸人と違って、食べなくても生きていけるのです。見方によっては、やなせたかしの絵本=アニメ『アンパンマン』は、このように設定することで、カフカが描いた「食べる―食べられる」関係についてのニーチェが提起したような近代的問題をクリアしてみせた、と見ることも可能でしょう。

「志願囚人」ということ

http://www.geocities.co.jp/bookend/2459/kanren.htmより転載
「ユープケッチャ」 {「カーブの向こう・ユープケッチャ」(新潮文庫)}の中の一編
 「方舟さくら丸」の原型になった作品。最後をみると、「志願囚人」プロローグとなっている。つまり、長編を念頭において、書かれた作品で、最終的には「方舟さくら丸」となっている。この点に関して、安部公房は、以下のように語っている。


最初はそういう題で考えていたんだ。「志願囚人」という発想をした理由は、いまわれわれが置かれている状況が、要するにそとから拘束された囚人ではなくても、みずから志願した囚人に過ぎないんじゃないかという問題提起をしたかった。でも、ずっと書き進めているうちに、それだけではまだ不十分であることに気づいたんだ。気がついて、「方舟さくら丸」という題に変えることにした。宗教的な言葉を一切使いたくないけど、これはある意味で人間の原罪を問う小説になるだろうな。方舟はむろんノアの方舟のもじりだよ。選ばれた者が生き延びて、その子孫を残すための、遺伝子プール作戦のための大シェルターさ。だから「方舟さくら丸」。ー(「錨なき方舟の時代」『死に急ぐ鯨たち』より)


 このように、当初のプロットから大きく変更されており、本作品は、直接「方舟さくら丸」にはつながらないが、閉鎖系で生息できる「ユープケッチャ」という生物は「方舟さくら丸」に登場するし、「もぐら」を思わせる人物が主人公になっている。

村上春樹とウィントン・マルサリス

 ウィントンにはこれから、自らの本質的(潜在的)退屈さを乗り越えていくことができるだろうか?もちろんそんなことは僕にはわからない。当たり前のことだが、そのためにはウィントン・マルサリス自身がまずその問題を深く自覚し、突破口を見つけ、自分の力で解決の道を見いださなくてはならない。しかしもしウィントンが、そのような自己変革を達成することなく、本当の意味でのジャズ・ジャイアントになれずに終わってしまったとしたら、同時代音楽としてのジャズは求心力を更に失い、ますます伝統芸能化していくのではないかと、僕は案じている。好むと好まざるとにかかわらず、ウィントン・マルサリスは現代のジャズの、ひとつのアイコンとして、残された数少ない可能性として、機能しているからだ。そういうコンテキストにおいて、彼がジャズという音楽の実質的な幕引き役を演じてしまうという可能性だって、なくはないのだ(村上春樹ウィントン・マルサリス」『意味がなければスイングはない』文春文庫、2008年(初出2005年)、pp.223-224)。


ウィントン・マルサリス村上春樹に、ジャズを小説に、音楽を文学に置き換えれば、まるで自分のことを語っているような文章です。

村上春樹のウディー・ガスリー論

(前略)しかしガスリーが一貫して持ち続けた、虐げられた人々のための社会的公正=social justiceを獲得しようとする意志は、そしてそれを支えたナイーブなまでの理想主義は、多くの志あるミュージシャンによって継承され、今日でもまだ頑固に―意外なほどと言ってもいいだろう―その力を維持し続けている。歴史的情景を精密に、生き生きと手書きで記録しようとする国民詩人的トラディションもまた、何人かの引き受け手をみつけている(村上春樹「ウディー・ガスリー」『意味がなければスイングはない』文春文庫、2008年(初出2005年)、p323)。


*こういう文章を読むと、村上春樹はさすがに上手いな、と思うのですが・・・・・・。どうして小説となると「都市インテリの知的意匠」みたいな作品を書くのか、不思議です。