村上春樹とウィントン・マルサリス

 ウィントンにはこれから、自らの本質的(潜在的)退屈さを乗り越えていくことができるだろうか?もちろんそんなことは僕にはわからない。当たり前のことだが、そのためにはウィントン・マルサリス自身がまずその問題を深く自覚し、突破口を見つけ、自分の力で解決の道を見いださなくてはならない。しかしもしウィントンが、そのような自己変革を達成することなく、本当の意味でのジャズ・ジャイアントになれずに終わってしまったとしたら、同時代音楽としてのジャズは求心力を更に失い、ますます伝統芸能化していくのではないかと、僕は案じている。好むと好まざるとにかかわらず、ウィントン・マルサリスは現代のジャズの、ひとつのアイコンとして、残された数少ない可能性として、機能しているからだ。そういうコンテキストにおいて、彼がジャズという音楽の実質的な幕引き役を演じてしまうという可能性だって、なくはないのだ(村上春樹ウィントン・マルサリス」『意味がなければスイングはない』文春文庫、2008年(初出2005年)、pp.223-224)。


ウィントン・マルサリス村上春樹に、ジャズを小説に、音楽を文学に置き換えれば、まるで自分のことを語っているような文章です。