非定型うつ病の信仰治療についてー禅宗の事例からー

 ここ一週間、一日三時間瞑想して、昨夜ようやく第三の目が開眼しました。実を言うと、一週間前、“騙されたと思って一日中坐禅をしよう。それで三月になっても完治しなければ命を絶とう”と決心していたのです。先週は、過食、過眠、全身の重さで寝たきりになり「皆には悪いけれど、私はもうこれ以上耐える力は残っていない。」と実感し、最後の力を坐禅に使って、使い切ったところでどこか遠い島でひっそりと一人死ぬつもりでした。昨夜、戻るための準備をして荷物を下に置いたとき、次の瞬間、気付いたら私は自信を持っていました。その自信は今私の身体の中心に入ってきています。母と一緒に居ても一切イライラしません。むしろ母の素晴らしい面がどんどん私に飛び込んできて幸せです。夜も30分以内に眠ることができるようになりました。以前先生の「頭のいい貴女なら絶対できますよ」という言葉を信じて藁をすがる気持ちで坐禅しました。今はすべてが新鮮です。植木も花もみんな生きていて、その中で生きていられる素晴らしさを実感しています。数年前に死ぬ覚悟をして薬を飲んだとき、友達が心配して来てくれて、すぐ救急車で運ばれたのを思い出すと、足がガクガクして生きている喜びで号泣しました。坐禅を通して、命の尊さを実感し、早く社会人になり世の中に尽くしたいと思います。来年からの勉強が楽しみでたまりません。病気をしていなかったら、こんなに命が尊いものだとは実感できなかったと思います。これが悟りかは、私にはわかりません。ただ、悟りかどうかはどうでもいいことです。私が楽になったのは真実ですから。命があるだけで今は十分です。それ以上は求めません(貝谷久宣「坐禅により軽快した非定型うつ病の1例」貝谷・熊野(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅脳科学と精神療法』新興医学出版社、2007年、pp.93-94)。


*これはやはり、「精神疾患坐禅で軽快した」というよりも、「坐禅を契機とした劇的な宗教的回心」で、副次的に「精神疾患が軽快した」のだと思います。