禅とマインドフルネス

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どう受容するのか仏教界 マインドフルネス流行の兆し(3/5ページ)
2015年10月28日付 中外日報(深層ワイド)


 だが、心理療法としてのマインドフルネスは無宗教だが、それを入り口として禅を目指す人が増えている。首都圏で坐禅道場を開く寺院では、ここ5年ほどで参加者が急増している。
 新宿・歌舞伎町に隣接する曹洞宗長光寺は毎週末、坐禅会を開くが参加者が殺到するため、2年ほど前からネットでの予約制にした。松倉太鋭住職(67)は「マインドフルネスを体験した人が増えてきた。あまりにも希望者が多いので、他の寺院も坐禅会を開いてほしい」と語る。
 臨済宗妙心寺派の東京禅センター(東京都世田谷区)では、土曜日の回を11月から予約制にした。昨年までは15人ほどの参加者だったが、今年から倍増。中山宗祐・同センター主任(31)も「女性が7割。マインドフルネスを口にする人がいる」と話す。
 曹洞宗宗務庁が認可する参禅道場の数は近年、380カ寺と横ばいだが、地方では減少傾向にある一方で、首都圏で増加している。宗務庁に届け出のない道場も多い。


「注目」「不要」の賛否両論


 仏教者はマインドフルネスをどのように受け止め、何を発信すべきか。
 井上副住職は浄土宗の教えとの整合性は模索中だが、身体や精神的な問題解決に効果があることを認めている。しかし、マインドフルネスだけをすればよいわけではないと指摘する。「震災のように多くの方が亡くなった場合、精神的な苦痛を瞑想だけで乗り越えるのは無理で、慰霊や供養などのグリーフケアが必要。命のつながりや自分の実存性などを伝えるには、やはり浄土教の教えが大切だ」と確信する。
 全国曹洞宗青年会は今年5月、マインドフルネスを知る機会を設け、ハン氏の弟子らと交流会を開いた。村山博雅・同会顧問は「これだけ流行する理由を知らなければと思った。マインドフルネスの内容に真新しいものはないと感じたが、瞑想についての詳細な分析や一般人への分かりやすい発信の仕方が、とても参考になった」と語る。
 戸松住職は「日本で流行すれば仏教に興味を持つ人が増えるだろう。だが、そのような人たちは檀家になるとは限らない。寺檀関係とは違う、信仰による新たな関係を築けるビッグチャンスとなる」と前向きに捉える。またマインドフルネスは各宗派の行や瞑想に通じるものだと指摘した上で、寺院は葬儀や法事だけでなく、念仏などを含め、このような行を実践できる機会や場所を増やすべきだと主張する。
 一方で否定的に捉える宗教者もいる。瓜生崇・真宗大谷派玄照寺住職(41)は「『本願念仏』は常識やとらわれ、思い込みから解放される教えであり、何かを行って結果を得るというものではない。自分の体験や行に依存したり、自分の心を変化させることで安らぎを得ようとすると、どうしても救われない人が出てきてしまう」と述べる。
 ネルケ無方・曹洞宗安泰寺住職も「日常の行いを一生懸命すればよいのであって、マインドフルネスを用いる必要はない。日本人は欧米の流行に弱い。気を配ること、注意することは日本人が生活の中で既にやっていることだ。主張の強い欧米人が自分を見つめるためには必要だが、内向的な日本人にはなじまないのでは」と話している。


仏教にヒントでも別物 正しい方向づけが必要
藤田一照さんに聞く 曹洞宗国際センター所長


 国内外でマインドフルネスや禅の講演、指導をする藤田一照・曹洞宗国際センター所長に聞いた。
 カバット・ジン氏が説くのは「信じなくても効く」というもので、心のエクササイズ。それは筋トレと同じで、初めから宗教的な文脈から切り離されているので、抵抗感なく受け入れられる。もともと仏教にヒントを得ているが別物と思った方がよい。それでも禅や仏教の要素があり有効であることは間違いない。
 ただ私は二つの点で批判的にも捉えている。本来、マインドフルネス(サティ)は八正道の一つの正念で、その一つだけ取り出して実践するべきではない。八正道の初めの正念と正思が、此岸から彼岸へと向かう方向を示し、残りの八正道を方向付けている。マインドフルネスには仏教でいう“正しい”方向付けが全くない。方向性がなければ、「無心で人を殺す」などのようにかつて戦争に利用されたようなものになってしまう。企業に都合の良い企業戦士を育成するマインドコントロールとすることもできるだろう。
 もう一つの問題は“私”がマインドフルネスになろうとして、単に心を飼いならそうとしているにすぎないこと。しかし、本来は努力ではなく、“私”を入れずに直接分かるような無心の心がある。禅では「求める心を捨てなさい」と言う。
 世俗的なマインドフルネスを乗り越えて、仏教者としてのビジョンを示さなくてはいけない。もっと奥(の瞑想)を望む人たちを、寺院はどのように受け入れることができるだろうか。
 まず僧侶自身が流行するマインドフルネスとは何かを学び、彼らが何を求めて寺院に来たのかを理解するのが第一歩だ。入り口はマインドフルネスでもよいが、(瞑想や修行は)それだけでは終わらない。薄っぺらな理解だけでなく、仏教はさらに奥にあるものを示すことができる。(談)


*ごもっともです。