死の実感の喪失

 「死の実感の喪失は、自分の命は永遠であるという幻想をもたらす。その幻想の中で、人は死に対する激しい恐怖にとらわれる。かくいう私も、死ぬことが ずっと怖かった。考えはじめると、叫びたいほどだった。しかしタヒチで獣の死骸を日常的に目にするようになって、次第にそれが薄らいできた。生きとし生けるもの、すべてに寿命がある。獣の死骸をあちこちで目にするのは、枯葉や枯れ草を見かけるのと同様に普通のことだと感じるようになってきた。人はいつか死んでいく、ということは、誰もがよく知っている。しかし、そんな知識は、死の恐怖を消すには役立たない。死を見て、肌で感じ、腐臭をかぎ、骸が自然の中で溶解していくのを見届ける連続の上ではじめて死の実感は、安らぎとともに得られるのではないか」
 また彼女(熊田註;作家の坂東真砂子)はこういう考察もしております。「死の実感は生の実感にも通じている。生と死は、互いの色を際立たせる補色のような関係だ。私に関していえば、死の実感の芽生えと友に、生の実感もなんとなく感じるようになってきている今日この頃である」
 この表現は、禅でいう生死するという感覚をよく捉えていると思います。生と死を同一次元で感じ、理解しないで生のみを選びだそうという生き方は、じつは生を実感することを難しくするばかりか、かえって死の姿をゆがめ拡大する心理作用があります(大井玄「在家坐禅者のこころ」貝谷・熊野(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅脳科学と精神療法』新興医学出版社、2007年、pp.67-68)。


*ごもっともです。