万年青年化防止策

 しかし、医師という立場からすれば、かりにそれが社会的文化的趨勢としておし止めがたい潮流中にあるとしても、個人の次元で可能な何らかの処方箋を万年青年化防止のために提出する義務がある。以下はそのためのほんの試論である。
 一言でいえば、その処方箋は「達成すべき課題は達成すべき年齢で」ということになろうか。(中略)
 個人の内的資質としては、年齢不相応に早くから几帳面傾向を示しだし、曖昧さと中途半端さを許容する程度のいちじるしく小さくなっている青少年に対しても、何らかの教育的配慮が必要ではなかろうか。「きっちりする」をもってよしと教える教育と並んで、ときには「きっちりしないこと」を教える教育もいるのではないか。図1(六五頁)にあげた病気中の大半(熊田註;例えば、強迫神経症・登校拒否・対人恐怖・青春期やせ症・自殺・無気力反応、以上発症年齢順)が病前に強迫性格をもっていることをここで述べておく。
(中略)こういう青年をみると、延長された今日の青年期を生きる青年のある人には、人より少々時間をかけて青年期という長いトンネルをゆっくり抜ける「しぶとさ」を求めたいし、周囲の成人や社会には、そうした時間をこの青年に貸す雅量を求めたい。「衣食たって」の時代である。「文化の時代」だと政治家さえいう時代である。逆説的になるが、成人になってものこる万年青年性を排除するためには、彼らの青年期に十二分の時間を猶予すべきなのではなかろうか。
 もちろんこのようにいう背景にはもう一つの臨床経験が控えている。それを筆者は「青年の変貌(メタモルフォーゼ)」とよぶのだが、青年はその長い青年期のどこかの地点で意外な「変貌」を示すことが多い。(中略)とすれば精神医学や臨床心理学は今日、性格異常だとか性格障害というレッテルを青年に貼るのにあまり性急でない方がよいことになろう。先にも述べたが、三十歳前後になるとかなりの神経症者が、完全とはいかぬにしても、かなりの社会的能力を獲得してくるからである(笠原嘉「自立と個性化」『再び「青年期」について』みすず書房、2011年(初出1979年)、pp.104-105)。


*さすがに、大学(名古屋大学)の保健センターで著者のいう「退却神経症」の青年を長年診ていただけあって、先駆的な考察だと思います。「いいかげんに生きよう」(摂食障害者の自助グループNABAの標語)