認知行動療法に対する懐疑

 もっとも、「成長」という言葉は今日も精神医学の世界で通用するのかどうか、検討に値するように思われる。DSM-Ⅲ以降、神経学的・公衆衛生的精神医学が主流になってから、そして治療学でも認知学、行動療法が主流になって以降、治癒とは欠損を何らかの手段で補填することでせいぜい元の機能を取り戻す、という純医学的発想となり、心理的成長によって心理的退行を乗り越えるという精神医学にのみあった考え方は背景にしりぞかされた。力動論を背景にもって、長年当然の公理のように扱われてきた“成長”概念に昔日の力が失われた、と思うのは私だけではないだろう。
(中略)
(前略)しかし翻ってわれわれの診察室を今一度みると、社会に参画しないまま四十代に及んだ退却症の男性の幼さ・純粋さに比して、長年うつ状態を悩みながらこれを克服した成年女子にはそれなりの成長があるようにみえる。精神医学的治療にはそういう“魔力”(?)があると信じたい。それとも今日それは精神科医ナルシシズムにすぎないのだろうか(笠原嘉「クリニックで診る青年の『ひきこもり症』」『再び「青年期」について』みすず書房、2011年(書き下ろし)、pp.202-203)。


現代日本において、欧米から認知行動療法を輸入することをNHKのようなジャーナリズムが手放しでもてはやしていることを、私は懐疑的に見ています。それは、社会における「人間関係の希薄化」を追認している側面があるからであり、笠原氏が指摘するように、「人間的成長」(天理教でいう「心の成人」)という考え方を軽視している側面があるからでもあります。