青年の「無気力反応」と「男らしさ」

 プレ青年期とは、先にも述べたようにサリヴァンの呼称にならったもので、小学校高学年から中学校の前半くらいにあたろうか。年齢的には十歳前後から十四歳前後と考えられる。もっともこの区分は、今日の日本において、という限定を必要としよう。(中略)
 筆者は、プレ青年期ならびに青年前期の恐怖症的な登校拒否者のなかに、特に男子のそれにおいては、無気力反応(apathetic reaction)という青年後期の現代型神経症の若年型といってよいタイプが少なからず含まれていると考える。無気力反応については青年期後期の項で述べるつもりだが、要するにこれは男性アイデンティティをめぐる葛藤、強迫的防衛とその破綻、もっとも現実的な課題からの選択的逃避をその骨子とする。プレ青年期と青年前期の学校嫌いは従来もっぱら児童期の学校嫌いになぞらえて分離不安としての側面を拡大視されてきたが、これはこれまでの学校嫌いの研究者が児童精神科医、小児科医、女流学者らによることが多かったことと無関係ではなかろう。この時期の男子の学校嫌いにはあからさまでないにしてもすでに男性アイデンティティをめぐる悩みがはっきり一枚かんでいることが多い。そのことを理解するには、この年代の男児の同年輩集団がしばしば、そのメンバーにかなり荒々しい男性確認的儀式の共有を要求することを知っておく要があろう。ある中学一年生の男児の登校拒否の契機となったのは、友人たちのその種の荒々しい行為によって生じた打撲痛の心気的拡大であった。こういうことは予想される以上に多い。青年後期の無気力反応と一線上に並べてみるとき、児童の恐怖症的学校嫌いにすでにあきらかにみられる強迫性・完全主義性についてあらためてその病因性を問題にできるであろう。彼らの強迫性格や強迫的傾向は学校嫌いと並ぶ副次的並列的特徴ではない。また、この年代の登校拒否の原型が当然男子にものであってしかるべきことも、無気力反応との類比によって明らかにされる第三の利点だと思う。もちろんこの年代の女児にも登校拒否はありうるが、その一部は分離不安の強い低学年型幼稚園型であり、あとの一部はいわゆる「男子に伍する」女児の場合であろう(笠原嘉「今日の青年期病理像」『再び「青年期」について』みすず書房、2011年(初出1976年)、pp.40-41)


 後期として高校後半から大学卒業ころまで、年齢的には十七歳前後から二十二歳前後を考えている。
 この時期にきわだつのは、自殺の出現、無気力反応、寡症状型の分裂病であろうか。(中略)
 無気力反応とは新造語え成書にはないが、現代この年齢期に初発することの多い、男子にほぼ特有の準神経症的状態といってよかろう。俗にスチューデント・アパシーとよばれるように、大学生に多く、しばしば長期留年者として人々の目にはじめてふれるようになるのだが、近年高校後半の少年たちにさえ散発的にみられるようになった。先にも触れたように、中学年代の神経症的登校拒否と一脈を通じるところがあるが、登校拒否の場合のように、神経症的不安とむすびついていない点で大いにことなる。自分の専門とする部門での勉学についてのみ選択的に関心を失い、講義や実習や試験に出ないが、しかし他方で、勉学以外の領域については(アルバイトやクラブ)平均か平均以上の活動力をたもち、勉学においても専門以外の領域には奇妙に熱心な副業的関与をすることがある。この点、同じ無気力という表現を用いるにしても、破瓜病者の生活全般へのゆるしがたい無気力無関心とは様子を異にする。ここにいう無気力反応には精神衰弱レベルのものもあれば、神経症と言うべきものもあり、パラノイローゼ(フランクル)、正常神経症(エイ)というのがよいと思える程度のごく軽いものもある。ただしうつ病とは似て非である(同上、pp.44-46)。


ジェンダー論に引きつけて解釈すれば、「強迫性格や強迫的傾向」をもった男児は、青年期に「男らしさ」をめぐる問題に悩まされやすいということでしょう。